京都守護職会津藩

新選組ツアー in 京都


3日目
(4)



京都守護職上屋敷跡を西に進むと、すぐ京都御所に到着です。

「蛤御門の変では、桑名藩士たちが守っていた辺りですね〜」と話しながら北上します。



建礼門です。
1つ手前から入ってしまったので、このアングルの写真がとれました。
左折して蛤御門まで戻ります(^^;







チャリの道も健在。

(自転車がここだけ通るので、砂利が無いのです)









蛤御門です。

我々が好きな会津藩士の一人である小原治八さんも、28歳で上洛し
蛤御門の変で30歳にして亡くなっています。









蛤御門

江戸時代末期の元治元年(1864年)、この門の周辺で長州藩と、御所の護衛に当たっていた会津・薩摩藩との間で激戦が行なわれました。

この戦いが「蛤御門の変(禁門の変)」で、門の梁にはその時の鉄砲の玉傷が残っています。

この門は新在家門といわれていましたが、宝永の大火(1708年)のさい、それまで閉ざされていた門が初めて開かれたため「焼けて口開く蛤」にたとえて、蛤御門と呼ばれるようになったといわれています。


この解説板には残念ながら簡単にしか書いてないですけど・・・。

蛤御門の変では、「会津」「御所を護衛」していたんですよ。

長州から。

それなのに、孝明天皇がおかくれになった直後、
幼帝を擁して会津を賊軍呼ばわりするなんて信じられませんね。


京都に放火帝を拉致しようとして失敗、池田屋で痛い目にあって逆恨みし、
御所をひくどころか砲撃してきた人たちに

賊軍呼ばわりされるいわれはありません。


日本の長い歴史上、御所に向かって発砲した人なんて
他にいませんよ。

擁した幼帝だって、その時の砲撃で失神させる不敬をしておきながら、
「我こそは帝の軍隊、官軍である!」ですからねえ。

すごいねえ。

つい長州長州言っちゃうけど、薩摩も酷いですよね。


※このあたりの話は、タイトルに「明治維新」と書いてある本では
無理矢理割愛されている場合がほとんどです。それもまたすごい。


だから、霊山のページでも言いましたが
「維新」という言葉は大嫌いなのです。







銃弾の跡。

蛤御門の変では、会津をはじめとし、沢山の方々がを落としました。

ところで。

靖国神社は、のためにを落とした人たちが神として祀られている」そうですが、
蛤御門の変で「御所に発砲してきて、帝を拉致しようとした人たち」が祀られています。

変なの。

そして、会津の人たちは御所を守ったのに、先方の言う「賊軍だ」という理由で祀られませんでした。

この矛盾。

この偏った扱いだけを見ても、薩長閥政権会津への扱いが容易に推測できます。


※別に、靖国に祀ってくれって言ってるわけじゃありません。
個人的には、むしろ願い下げ。


「賊軍」と呼ばれることが、会津をはじめとした東軍にとって
どれだけ屈辱的で悔しい事だったのか分かっていますよね?

分かっているからこそ、「明治維新史」で「蛤御門の変割愛」するのでしょうけど。

ところで、靖国の隣にある博物館の、旧幕府軍に対する「賊軍」表記キャプションはまだあるのでしょうか?あの調子だとあるんだろうなあ(ニガワライ)。※錦旗の下ですよ。

あんなに偏った、また全体的に戦争を賛美しているような印象を受ける施設が
この平成の日本に存在する事に、激しいショックを受けました。

是非、一度は行ってみて下さい。激しくガッカリ&グッタリしますけど。
精神が消耗します。






蛤御門をくぐり、東に進むと
清水谷邸の椋の木が見えてきました。









清水谷家の椋

この大きな椋の木は、このあたりが清水谷という公家の屋敷であったことから「清水谷家の椋」と呼ばれています。
樹齢は約300年くらいで苑内でも数少ない椋の大木です。
1864年の蛤御門の変の時、長州藩士喜島又兵衛がこの木の付近で討死したとも伝えられています。


・・・どうして長州藩士が特筆されているのか?


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京都御所は偶然一般公開中だったので、往復はがきで申し込まなくても中に入る事ができました。混んでいて長蛇の列だったらどうしようと思いましたが、素通りに近い感じでした。





諸大夫の間。
この辺りって、何年か前も改修工事中だった気がします(^^;

正式に参内した者の控えの間だそうで、会津藩主松平容保公もここに通されたことでしょう。







人が大勢いますけど、混んでて嫌だな〜って感じでは全くないです。

むしろ、この開放的な感じを楽しみました。










赤くて丸い柱がステキです。









そろそろ紫宸殿が見えてきます。








紫宸殿です。
葉書で申し込んだ時はここから見るだけでしたが、
一般公開の時は向こうに人が見えるように、近くまで行けるのです。









振り返って建礼門を撮影。






建春門。
会津藩士1000名による天覧の馬揃は、この目前に広がる広場で行なわれたのか、またはこの門の外側で行なわれたのか、ちょっと分かりません。
ただ、幕末の地図を見る限りでは、向こう側は狭いので、こちら側ではないかと思うのですが・・・いかがでしょう?


【 天覧の馬揃 】

文久3年7月30日午後3時頃、武装した会津藩兵1000名が建春門前に整列した。

馬揃(錬兵)を天覧に供するためである。

松平容保は、参内傘の馬印「皇八幡宮」「加茂皇太神」を馬前に立て、藩兵を率いて本陣の黒谷から御所に向かった。

この参内傘は、かつて藩祖保科正之公が参内した時のものを模して作り、子孫に勤皇の志を忘れないように戒めたものである。

松平容保は鹿毛の馬に乗り、5種の信号旗で間断なく指揮すると、兵列は整然と動き、また苛烈な気迫で展開するなど、長沼流の秘伝が帝の目前に繰り広げられた。

やがてになったが、錬兵はになっても続き、かがり火に刀槍の白刃が煌いた。

帝は頗るご満足になって、再度のご希望があり、8月5日朝より、再び演武した。
松平容保の着る陣羽織恩賜の御衣で、その緋色が天日に輝いた。




文久3年7月30日。

朝廷より、会津藩に「天覧の馬揃」をせよとの特命があり、
建春門に孝明天皇の玉座が設けられました。

この日は雨で、以前より「雨天順延」との事だったのに、
過激の堂上らは会津藩の油断を考え、しくじらせようとにわかに馬揃えを命じましたが、会津藩は堂々と実施しました。

帝は、見事な馬揃えにとても感銘されたらしく、もう一度見せよとのご所望がありました。

8月5日、二度目の馬揃えは晴天で、
先日にもまして見事な調練ぶりを披露できたそうです。

帝は親しく松平容保公を召し寄せ、数々のものを下賜されたそうです。

殿や会津藩士やご先祖たちは、遠い異郷の地でさぞ晴れがましい気持ちだったでしょう。


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それから8日後の8月13日、「尊皇攘夷」を旗印としているはずの長州派と三条実美らが偽勅を出します。

文字通り、「偽りの勅命」です。
自称「勤皇の志士」なのにねえ(笑)

これだけ会津に篤い信頼を寄せ、公武合体を望んでおられた孝明天皇が、
手のひらを返したように「倒幕」をなさろうとする訳がありません。

孝明天皇は「幕府による攘夷」を望んでおられたのですから。

ここから8月18日への政変(※)になっていき、会津藩は逆恨みされます。
「奸会」とは随分と失礼な(笑)


孝明天皇はこの政変で、松平容保に直筆の
「御製」と「御宸翰」を下さるほどお喜びだったのにね。

まさかその人達にご先祖たちが「賊軍」呼ばわりされる事になるとは・・・。



そして、これら「偽勅」の話も、「明治維新」というタイトルの本には出てきません。

「尊皇攘夷」が「大義名分」だというのがバレるからでしょう。
自称「勤皇の志士」ですもんね。
「勤皇の志士」が出した偽勅は、これ一つではありませんよ。

※ 私のご先祖は8月18日の政変の時、その場に居たそうです。
落ちていく七卿を見たんだろうなあ。






テントでパンフレットを配っています。
いただきます。








紫宸殿。
こんなに近くから見たのは初めてです。








綺麗です。










なるほど。









高御座です。










高御座

中央にあるのが高御座で、即位の儀式に、天皇の御座として用いられる物です。現在の高御座は古制に則って、大正天皇即位式の際に造られたものです。

3層の継壇からなり、朱塗の高欄を巡らした黒漆塗の浜床の上に、八角形の屋形があり、屋形の上には、中央に大鳳凰、周りには小鳳凰を載せ、大小の鏡、玉、瓔珞、帳などで装飾されています。

屋形の中には御椅子があり、その左右に剣じと御じ、国じを置く案があります。

御帳台(皇后御座)

向かって右側は、御帳台で皇后の御座として用いられるものです。現在の御帳台も高御座と同じく、大正天皇即位式の際に造られたものです。

高御座に比べれば、少し小振りで屋形の上にはらん鳥が乗っております。

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写真撮り忘れました(^^;








流石、立派な建物ですね〜。








あ、人形が居ます。
これも往復葉書で申し込んだ時は置いてないですよね。








文官束帯と五衣裳唐衣の人形が居るところは清涼殿です。


清涼殿

平安中期頃から天皇日常お住まいになった御殿である。

中央正面に御張台を置き御休憩にあてられた。

向かって右側に夜御殿(御寝所)、左側に漆喰で塗り固めた石灰壇(天皇が神宮や賢所を遥拝されたところ)がある。

また、中央後側には御湯殿、朝がれいの間、台盤所(台所)などがある。





文官束帯







五衣裳唐衣。









進んでいきます。







あ、平安っぽくてステキです。








道具や家具の展示もありました。








千鳥や繧繝縁がステキです。








次は小御所です。

友人によると「以前は人形で小御所会議が再現されていた」そうです。
岩倉とか大久保とかが居たってこと?

今日はそうじゃなくて良かった(^^;









冊子作り

印刷の技術が無かった時代、冊子を作ることは女房(女官)たちの大切な仕事の1つでありました。

冊子を作る作業には「紙を切る」こと「紙を折る」こと「糊をつける」こと「絵を書く」ことがありました。

それらの作業の様子を4体の人形で表現します。

冊子を作り、和歌集等を書写することは、宮廷人にとっては、知識、教養等を高めるための重要な務めでありました。




「紙を切る」
刀子(とうす)という小刀を使い紙を切ります。

切る時には、竹尺を用い、腰から下には今のエプロンにあたる「褶(ひらみ)」をつけました。

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この人形の褶は赤いのでしょうか?
長袴と同化していてよく分かりません。





「紙を折る」
和紙を折っている姿です。

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実は、解説を見る前は「水色の袴をはいてる!?」と思いました(笑)






「糊をつける」
折り上げられた紙(折り目の外側)に糊をつけます。意とや紐を使わずに一枚ずづ糊をつけて綴じ固めます。







「絵を描く」
紙に顔料(絵の具)を用いて彩色します。絵や文章も書きます。







ちょっとだけ紅葉しています。







巨大な生花が3つ飾られていました。







立派な築地塀です。

幕末の視点で御所を見るのは、精神力がいるなあと思いました。

遠くから「ジリリリリ!!」と大きな音が聞こえました。
誰かが壁を触っちゃったのかな〜?

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オマケ。





自分も見たいので、装束のアップです。
袿の裾には綿が入っているのでしょうか?

薄紫の単が良い感じです。






文官束帯。袍は小葵?

袍って黒と赤しかないから残念。
ずーっと昔みたいに、官位によってきちんと色分けされていたほうが綺麗だと思うなあ。







冊子を作っている女房の装束。
単が花田色です。鮮やか。

中陪は黄緑、おめりはピンク。







赤い袿と黄色の単。

中陪はピンク、おめりは薄緑。







萌黄の袿。中陪はピンク、おめりは黄色。
黄色の単。







ピンクの表着。中陪は濃いピンク、おめりは薄紫。
黄色の単。

どれもこれも、とても高級そうな布です。
糊が効いていて肩が張っているのが、個人的に残念。

萎え萎えしているのが好みなので。







2種類の上紋がカッコいいです。


養源院へ


参考資料

「幕末会津藩」:歴史春秋社
「会津藩と京都守護職」:会津武家屋敷、会津歴史資料館