金塔山 恵隆寺
きんとうさん えりゅうじ
(真言宗)

日本最大の木彫仏像、千手観音菩薩立像





恵隆寺という名は知らなくても、「立木観音」の事は、普く人口に膾炙されている。

「塔寺の立木観音」の名で親しまれている観音様は、正しくは「木造千手千眼観世音菩薩立像」と言い、千の慈手と千の慈眼を持って人々を救うという。像高8.5mの大きなものである。

現在でも床下に根がある一本掘りで、木彫りとしては日本最大(※)の千手観音立像である。

大木の幹には浅くノミを入れて、あっさりと衣文の彫刻をしているのが特徴という。腰の折り返しを二段に作っているのは、下肢が長いので単調になりやすいのを防いでいるのである。
また、この千手観音は42肘となっているが、一肘が25手を象徴するところから40合わせて千手としている。

制作年代ははっきり分からないが、観音堂の建物ができるその前の、鎌倉初期だと言われている。

室町時代の製作と言われている脇侍、木造二十八部衆立像及び風神・雷神合わせて三十体、三十番の神像が総て揃っている。

二十八部衆は像高約2m前後の欅の一本彫成で胡粉下地の上に極彩色が施されている。右と左に五段ずつ各々十四体が並び立つ様子は群像と呼ぶのにふさわしく圧巻である。風神と雷神は友に豪快な感じがして、この千手観音の脇侍としてふさわしい。



※教育委員会による解説板には「東北で最大、我が国でも有数の大像」
と書いてあります。








重要文化財 恵隆寺観音堂

国指定 明治37年2月18日
所在地 会津坂下町大字塔寺字松原

寺伝によれば鎌倉時代初期の建久年間(1190〜8)の創建といわれ、永禄2年(1559)の修理の後、慶長16年(1617)の会津大地震に倒壊し、元和3年(1617)に再建された観音堂で、御丈8.5mの本尊を納めるにふさわしい5間・4間の大堂である。
向拝は後補のもので、雨落ちに葛石(かつらいし)をめぐらし、柱は総て欅の円柱で、縁長押、内法(うちのり)長押、柱頭には頭貫を回し、平三斗が組まれ中備えに撥束(間斗束)が配されている。軒の出は深く二重の繁垂木は隅木近くで程よい反りを見せ、萱葺・寄棟の屋根には会津地方独特のグシ飾りがある。
細部には元和の修理による唐様の手法も見られるが、会津では喜多方市熊野神社長床につぐ純和様の古建築で貴重である。


重要文化財 木造千手観音立像

国指定 大正4年3月26日
所在地 会津坂下町大字塔寺字松原

恵隆寺観音堂の本尊で、像高8・5mの、東北で最大、我が国でも有数の大像である。材は今のところ不明であるが、大木にあまりノミを入れない像容は、柳の立木に刻んだという寺伝にふさわしい。頭上に10面を戴き、42肘に作られる。頭・胸は一木刻成、両肘のところで剥ぎ合わせ、合掌手・宝鉢手以下40肘は別木である。長大な下肢には腰裳を二段に配するなど工夫が凝らされ、全体には漆箔が施されている。
造像の時期は観音堂とほぼ同時代の鎌倉時代初期が考えられている。

会津坂下教育委員会



【久しぶりに坂下(ばんげ)に来た理由】

※プライベートな理由なので、読み飛ばしていただいて構いません。

実は、自分のご先祖調べの為に役所で戸籍を遡ってみたら

「あなたのご先祖様は坂下(ばんげ)から引っ越してきていますね。
という訳で、この続きは坂下の役場で調べて下さい。」

と言われたので、会津坂下の役場まで来たのです。
そして、我家の戸籍の最も古い名前が、幕末の会津藩士の名前だったので安心しました。

簡単に説明すると、戊辰戦争で戦った戸主本人の戸籍は存在しませんでしたが、
その息子の戸籍に「亡父」としてその名前があったのです。
そして、その「息子」は私のご先祖です。

あー良かった。私は確実に生まれも育ちも生粋の会津っ子でした。
これで、自信を持って、こんなに暑苦しいサイトを運営している理由の一つにできます。
今までは「自分は何者なのか?」という漠然とした不安が常にあったのです。

それにしても、我家は苗字が珍しく、代々男子に付けねばならない文字があったため先祖であろう人が特定しやすく、さらに、そこそこの身分だったから親切丁寧な史料(会津藩諸士系譜等)に載っていたのです。時代がズレた史料でも、我家の珍しい苗字と、付けねばならない名前の一文字から、確実に血縁者だと分かるので楽なのです。

そうでなければ、調べる事も確認することも出来なかったはずです。
そもそも、会津藩士の子孫かどうかも分からなかったかもしれません。
そして、2003年度の会津秋まつりで「その苗字は藩士の名簿にあるよ」と教えていただけましたし。
複合的に、本当にラッキーでした。
きちんとした家なら、そういう事も親から子へと伝わっているのでしょうけど、我家はかなりアバウトでした(^^;

曽祖父にだけ、その「男子の名前に付けねばならない文字」が付いていないので、ずっと疑問に思っていたのです。祖父も父も兄にも付いている文字なのに・・・。その謎も解けました。

私の曽祖父は「お婿さん」だったのです。

そんな事さえ伝わっていないのですから「オイオイ!!」と思いました(^^;

余裕があったら母方の先祖調べもしたいです。
祖母が青森県三戸のりんご農家出身なので、斗南藩に移住した会津藩士ではないかと思っているのです。



そして、ご先祖調べが終わって時間があったので
坂下の史跡めぐりをしてみたのです。








了解しました!

立木観音って有名ですけど、訪れた事がありませんでした。
地図を見ながら来てみたら・・・。

びっくりしました。

「ここ、母の実家に行くのにしょっちゅう通る道だよ!」
横目に「何だろう」と思っていた寺が立木観音だったとは!

無関心って恐ろしいですね(^^;









仁王門です。








観音堂が見えてきました。








自生北限の「あおならがしわ」の木です。







ふむふむ。








お寺や神社では、手と口を清めるのがマナーです。

この水と御手洗石については下記を参照してください。










清浄水の御案内

この水は、享保18年以前(約250年前)に地下10メートルまで井戸が掘られ、現在でも安心して飲む事のできる天然水です。
この大きな手洗石鉢は、銘を「狐石」と言い、河沼郡不思議石の一つで、只見川の川岸近くの和泉集落にあり、よく狐を集めた石と言われ、七折峠の山坂道を約10キロメートル程を経て多数の信者の力により、当山に寄進されたものです。

石の銘文
時:享保18年7月
住職:覚舟代
石工:信州の住人 帰島刀右ェ門
石曳人夫:野沢組(現西会津町地域)、坂下組・牛沢組・青津組(現会津坂下町地域)

※御水の持ち帰りは20リットルまでとし、きちんと止水して下さい。





観音堂はかなり大きくて立派です。
後から思いましたが、中におられる千手観音菩薩は8.5mもあるのですから
御堂だって大きくて立派なはずですよね。








立木観音御案内

寺伝によれば、大同3年弘法大師(徳一?)一刀三礼の一木彫で、我国最大2丈8尺(8・5m)の本尊を立木観音と呼ぶのは、今でも根株が仏像と続いている一木によることからで、一本の木の芯を止め、枝を払い、皮をはぎ、根のあるままに彫刻されたからである。
千手観音なので、子年生まれの人の一代守本尊様であります。堂内に「だきつきの柱」があり、この柱にだきついて心願すると、ご利益あらたかなので「だきつき観音」と呼ばれ、更に、老人の後世安楽の心願から「ころり観音」とも呼ばれている。

御堂の案内

鎌倉初期の純和様建築で寄棟造りと言われ、装飾の少ない貴重な建造物として評価が高い。

指定
本尊:大正4年文部省告示 第56号国宝指定
本堂:明治37年内務省告示9号
特別保護建造物指定
(現在は国指定重要文化財)

寄贈 東山温泉観光協会







中を拝観したい場合は、インターホンで係の方を呼んで入れてもらい、拝観料300円を払います。

外から覗き込んだ時は気付きませんでしたが、観音堂の内部はカーテンのように全体に斗帳(※)が掛けてあり、仏像は全く見えない状態になっていました。
その巨大な斗帳は、その内側におられる仏を描いたものでした。

係の方が、その斗帳の右半分をめくって固定し、その状態で仏像を拝観しました。
へー!、めくるんだ!!すごい!と思いました。

8・5mの千手観音立像は、お世辞抜きに圧巻でした。
実は、正面からの写真は書籍で何度も見たことがありましたが、正直なところ「身長と腕とのバランスが何となく釣り合っていない」と思っていたのです。

しかし、観音堂の中で見るそのお姿は、必然的に下から見上げる形になります。
そうすると、体と腕のバランスが丁度良いのです。
格好良かったです。

立木観音は、根が付いたままの木から彫り出したと言われており、
現在も根の部分は土中にあるそうで、蓮台の下が気になりました。

脇侍もきちんと三十体揃っています。
千手観音菩薩を中心に、左右に、階段状の台の上に並んでおられました。
解説によれば、この形式が保たれているのは、京都のいくつかの大寺院くらいしか無いそうです。

とにかく良い感じでした。
私は仏教の世界観は大好きですが、仏教を信仰している訳ではありません。
そんな私でも敬虔な気持ちになりましたよ。


※斗帳・・・1407年、斗帳供養を行ない、以後33年目に掛替とする。
この時から現在のような斗帳を掛ける。




拝観時にいただいたパンフレットです。
あまり大きく載せるのは憚られるので小さめです。
千手観音菩薩の右側に、袈裟を纏ったお坊さんが小さく写っていますので
大きさを感じ取って下さい。
この仏像は、正面から見るものではなく、下側から見る方が断然良いと思います。







パンフレットの表紙です。
観音堂内部の右側の柱は「だきつき柱」と言います。
抱きついて心願すれば満願成就と、信仰があついそうです。

もちろん抱きついてきました。
かなり太い柱でした。


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本堂の脇に櫛を納める場所があったので、手持ちのつげ櫛を奉納しました。
女性が「苦・死」から逃れられるのだそうです。

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観音堂に向って右側には、真新しい綺麗な塔が建っていました。









御案内

名称:小金塔(こきんとう)
御仏:大日如来
一代守護:未(ひつじ) 申(さる)歳生れ
御縁日:毎月28日

再建の発端

会津風土記(寛文6年ー1666年)の記述によると、その昔、恵隆寺立木千住観音堂の現境内地に、小さなまばゆいばかりの塔があったと書かれている。
このことにより、昭和57年の調査で礎石が発見され、方形に塔の4隅の土台石として正方形に発掘された。
寺に継承されてきた御仏も、昔をしのぶ御姿に大補修され、発掘された4個の大石を4隅に配し再建して今日を迎えた。


そんなこんなで、大満喫してしまいました。





立木観音の駐車場には、観光案内板がありました。
分かり易くて良い地図です。
立木観音は地図の中心付近(現在地)です。

・・・堀部安兵衛が会津坂下生れだとは知っていましたが、その生誕の地が役場の裏とは!!

これは行ってみないとですね!





すわ!


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【このページの参考資料】
・「会津の寺(耶麻・河沼・大沼・南会津の寺)」:歴史春秋社
・該当施設の解説板&パンフレット