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長光山 貴徳寺
ちょうこうざん きとくじ

(浄土宗)

堀部安兵衛ゆかりの寺です。




恵隆寺(立木観音)の駐車場にあった地図です。
何と役場の北側に、堀部安兵衛ゆかりの地が!

堀部安兵衛が会津坂下町ゆかりの人物だという事は知っていましたが、
偶然その生誕の地が分かってラッキーでした。








会津坂下町役場を北に歩いていくと・・・。
ああ、あったあった。
左折します。







到着です。
石碑も建っています。








何とお寺でした。
貴徳寺といいます。


【貴徳寺】

貴徳寺の開基は南北朝時代というが、詳しくは分からない。天文14年(1545)に出火し什物等を焼失しており、享保12年(1727)と明治24年と、計3回火災になっている。したがって、本尊の阿弥陀仏立像は、享保の火災の折失い、大堀五左衛門氏が春日作とされている念持仏を寄進したものである。
明治17年より無住が続いたが、昭和35年より金沢貞尚師(47世)が寺の再建に尽力された。昭和57年に寂滅したのでその後光明寺が兼務していた。現在は50世の徳明さんが住職。






堀部安兵衛を顕彰する碑が建てられていました。


【堀部安兵衛ゆかりの寺】

新潟・新発田(しばた)藩士だった父、中山安太郎が芸者小菊との仲により勘当され、中山家の下男だった茂助が住む坂下の地に来たが、家が狭いので、この寺の15世厳哲和尚に頼んで一室を借りて住む事になった。
寛文10年に安兵衛が生れる。

5歳の時に母は亡くなる。父も病床に臥し、薬を求めに行く途中、偶然にも祖父安左衛門と出会う。祖父とは名乗れず金子を与えるが、それを知った盗っ人が安太郎を殺して逃げようとしたのを安兵衛が討ち果たすという逸話も残っている。

安太郎は天和元年(1681)6月18日死去、この貴徳寺に葬られた。


成る程〜、そういうエピソードがあったのですね。
何か別の物を読んだ時の記憶が正しければ、安兵衛が持っていたお守りか何かで、自分の孫だと分かったんじゃありませんでしたっけ?







石碑は、表よりも裏が面白いのです。
これもやはり非常に興味深いことが刻んであります。
石に刻んだ文字って、写真を見ながら読み取るのは非常に困難なのですが、頑張ってみました。


赤穂義士の中堅堀部安兵衛武庸こそ、寛文十年この地
会津坂下町茶屋町 貴徳寺に呱々の声をあげ幼名を安之助
と名づく、爾来少年に試練の道が始まり幼にして母を
亡くし、続いて父の病に臥するなど、赤貧洗うが如き窮地
にあつて、なお苦難に耐え孝養を尽くす、十二歳の時父安太郎
非業の死
に逢い、剛気勇敢時を移さずその仇を討ち忽ち
近郷の人々を驚嘆せしめたり
後に、祖父中山安衛門に養育せられ、長して江戸へ上り
学を修め、武を練り、堀内道場の師範代の要職をつとめ
世に剣豪の名声を博し、また時の高儒細井廣沢とも
親交を有し、常に学問に励む、元禄七年二月十一日高田
の馬場において盟友菅野六郎左衛門の仇敵村上兄弟
らを斬り、一躍して天下に勇名轟かす、豪勇の響、四方
に薫ずるところ、望まれて同年堀部弥兵衛金丸養子
迎えられ、名を堀部安兵衛武庸と改む、元禄十五年十二月十四日
の夜半、浅野内匠頭長矩の臣、同士四十七人共々、吉良邸に討入
白刃雪に映じ、月光暁を衝いて迫り、上野介義央の首級を挙げ
主君の怨を晴らし、臣節を全うす、翌元禄十六年二月四日
幕府は一党にを賜り、剣に伏して終る
王法は廃すべからず、臣節は己むべからざるところなれば
無念これを上なしと雖どもまた詮方なく、天人倶に哭き、痛恨
の涙洵に切なるものあり、嗚呼壮絶なるかな、義憤胸迫る心血
を昇華、忠烈正に比類なき生涯にして、忠孝両全の至誠を
貫徹したるは、ひとり武人の亀鑑たるに止まらず、亦もつて広く
世人の範となすところなり
、因って茲に堀部安兵衛武庸の
赫々たる忠魂を称え、これを永遠に伝えゆくことを希う

昭和五十五年四月
会津坂下町堀部安兵衛顕彰碑建設委員会

なるほどね〜。また地元を満喫してしまいました。
史跡めぐりはこれだから止められません。








会津坂下町役場に飾ってあった俵です。
これは多分、正月の行事「大俵引き」で配られると言う「福豆俵」です。
小さくてラブリーです。
中には何が入っているのでしょう。米?









昔の俵引きはノーマルサイズの俵だったそうですが、
時代が進むにつれて巨大化したそうです。

若松市内の大町四つ角でも俵を引いていました。
その時の俵はノーマルサイズだったそうです。

↑写真に写っているものは、大俵引きで使用されるものではありません。
普通の俵よりも小さいですから、展示用でしょうきっと。








またラブリーなものが。
きっと会津坂下町のキャラクターです。
友人が言うには「ばんげのBを元にしていて、確かビーちゃんって言うんです」とのこと。

いいなあ、若松にもふさわしいキャラクターが欲しいです。
ラブリーなものが良いですが、劇画調でも良いです(笑)









涙橋の所で道を間違い、わざわざ混みまくっている七日町を通って帰ってきました。
(南下してカワチに行こうと思ったのに・・・。)
この細い道で右折されると、後続車が詰まりまくりです。
青信号の1ターンで、右折車1台のみ通過ってどうよ?

長い信号待ちの合間に撮影しました。カッコイイ酒の名前です。



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このページの参考資料
「会津の寺(耶麻、河沼、大沼、南会津の寺々)」:歴史春秋社