横須賀&浦賀&横浜 3

高輪 泉岳寺


友人が「品川から泉岳寺って近いですよ」と、宿に置いてあったパンフレットを見て言いました。

是が非でも行ってみたいです。





駅から出ると、すぐ泉岳寺でした。
もののふ君も、泉岳寺に来る事が出来て喜んでいます。

※このもののふ君は、実は指先程度の大きさです。
本当のもののふ君の本体です。鉄拐仙人のように口から魂魄が出てきた設定です。
旅先では小さくて嵩張らなくて良い感じです。







大石内蔵助殿とツーショットで。
売店ではお土産を買いました。
売店の人に「どちらからいらしたんですか?」と聞かれたので「福島県の会津です」と答えたら「私の妹が会津に嫁いでいるのよ」と、ここでも会津繋がりです。









泉岳寺の門です。潜ります。






泉岳寺です。
47士の墓所は、ここを潜って左側のようです。







墓所への道です。
泉岳寺は、売店は何件かありましたが、全然嫌な感じはしませんでした。

白虎隊墓所の、あの俗地と化した鄙び具合は、やっぱりおかしいよ(^^;
妙な雰囲気の売店や建物が建ち並んでいるのは、白虎隊自刃の地としても墓地としても、恥ずかしいです。

私有地だからって事もあるのでしょうけど・・・
やはり、他所からお越しの皆様にあの現状を見られるのは、
市民としても藩士の子孫としても恥ずかしいのです。

墓所は、故人を偲ぶべき所であって、観光地でも売店でもないのですから。

とにかく、あの一昔も二昔も前の雰囲気をかもし出している
古びた売店群は何とかならないものか・・。







解説

赤穂城主浅野内匠頭長矩は、士道を弁えぬ吉良上野介義央の仕打ちに抗して刀傷に及びし咎により即日切腹を仰せつけられた。

家臣はこの処断に承服せず、筆頭家老大石内蔵助良雄を統領に四十七士が結束して主君浅野内匠頭長矩の無念をはらすため元禄15年(1702)12月14日本所吉良邸に討入り主君の辱めを雪ぎ、その墓前に吉良上野介義央の首級を供へ成就を報告し、敢えて官に裁きを求めた。

義士一同は、12月15日夕刻細川家(17名)、松平家(10名)、毛利家(10名)、水野家(9名)の4家に預けられた。

翌元禄16年2月4日、幕府は苦心の末、武士の体面を立て、切腹せしめた。直ちに主君の墓側に各々4家に分けて葬られた。

随記 遂道退身士(寺坂吉右衛門)、刀道喜劔信士(萱野三平)の墓は供養墓である。





きちんと四十七士が一箇所に埋葬されているのですね。
浅野内匠頭やその奥方のお墓もあります。

個人的に、堀部安兵衛さんが会津坂下町にゆかりのある方なので、特にお参りしました
※幼少時を会津坂下で過ごしています。


墓の写真は撮りませんでした。







線香を供えたい気持ちだったので、墓所の入り口で購入しました。
左にチラリと写っていますが、竹の容器に火のついた線香を入れてくれました。

皆さんのご冥福をお祈りしました。


次へ