横須賀&浦賀&横浜 5

中華街&氷川丸





お昼は中華街で中華を食べますよ。
ランチバイキングです。楽しみです。






予想以上に、非常に美味しかったです。
一品一品が丁寧に美味しかったです。
特にマーボ豆腐が気に入りました。これで900円しないのですから、大満足です。


中華街のファンシー雑貨などを見たり買ったりしながら、浜の方に向かいます。







氷川丸が見えてきました。







バラと豪華客船。







氷川丸の歴史
〈横浜市指定有形文化財〉

氷川丸は、日本郵船の社船として、三菱横浜造船所において建造され、1930年(昭和5年)4月25日に竣工、ただちにシアトルに向け、処女航海の途につきました。「氷川丸」の船名は、氷川神社(埼玉県)から授かりました。

本線には、最新の大型・高出力ディーゼルエンジン(デンマーク・B&W社製)や、当時未発効であったSOLAS(海上人命安全の為の国際条約)を先取りした水密区画構造が採用されました。

また、1等船室など船内の随所に、1925年パリ万博で発表されたばかりの、アール・デコ様式のインテリアも、採り入れられました。

オーシャンライナー全盛期の優美な船型と、一流シェフの料理をはじめとする最高のサービスが相まって、本船は「北太平洋の女王」と呼ばれました。

1932年(昭和7年)には、喜劇央チャーリー・チャップリン氏が、1937年(昭和12年)には、英国皇帝ジョージ6世の戴冠式に出席された秩父宮ご夫妻が、横浜港まで乗船されました。

1941年(昭和16年)、太平洋戦争勃発とともに本船は、日本海軍に徴用され、主として南太平洋海域において、病院船としての使命を果たしました。1945年、終戦を迎えた後も、大勢の同胞を家族の待つ日本へ送り届けるため、復員輸送に従事しました。

1953年(昭和28年)には、再び改装工事が行われ、太平洋を横断する唯一の本格的客船としてシアトル航路に復帰、母港横浜を出航しました。

このシアトル航路では、戦後の日本復興において、アメリカとの交流を促進するために始められた、フルブライト及びアメリカン・フィールド・サービス(AFS)の交換留学生の方々が、多数乗船されました。また、「宝塚歌劇団」が北アメリカ、カナダ公演の為、本船に乗船されたのも、話題となりました。

戦前・戦後を通じ北太平洋を238回横断し、延べ25,000人余の乗客を運んだ氷川丸は、1960年(昭和35年)10月、現役生活を引退し、横浜市の「横浜港開港100周年記念事業」の一環として、1961年(昭和36年)生まれ故郷の横浜港・山下公園に係留されました。

係留後は、国際都市横浜を訪れる観光客の方々に、当時の豪華客船の優美な船旅気分を味わっていただけるよう、船内を見学していただいております。

氷川丸マリンタワー(株)


氷川神社といえば、会津藩祖・保科正之公の母上である、お静方様ゆかりの神社ではありませんか。
まさか氷川丸の船名の由来にもなっていたとは。

さらに、秩父宮ご夫妻まで乗船なさっておいでとは。
秩父宮妃勢津子殿下は、会津藩九代目藩主・松平容保公の御孫姫でいらっしゃいます。







エントランスロビーでチケットを買います。
水槽には海の生物がいました。










エンジンルーム

ようこそ!氷川丸へ!
始めに御案内するのは船の心臓部ともいうべき、エンジンルーム。華やかな航海の勇姿も、油まみれの陰の力があって初めてなりたつというもの。
エンジンルームは船底から三層構造になっていて10.5Mの高さがあります。
エンジンは、デンマークB&M社製ディーゼルエンジン2基を装備し、1930年当時としては最大級、出力11,000馬力・最高速力18.21ノットの性能を誇っています。
その轟音と振動を体験していただきます。

それではいよいよ出航です。
「ボン ボヤージュ!」

「ボン ボヤージュ」とは、ネットで検索したところ、
フランス語で「よい旅を」という意味だそうです。






エンジンルームではディーゼルエンジンを映像と音とでリアルに体験できました。








船底で何思う。








氷川丸の料理室。
航海当時は乗客331名、乗務員126名、計457名の食事を一手に引き受けていた大型キッチン。
設置されている調理器具の一部は置き換えられたものの、場所は当時のままだ。

ピカピカで、今でも使えそうな感じのキッチンです。







三等船室です。
私は三等船室でも充分、大丈夫そうです。








氷川丸の誕生から係船まで

【誕生】

日本郵船は昭和2(1927)年シアトル航路に新造船の投入を決め、翌年氷川丸・日枝丸の二隻を横浜船渠(現みなとみらい21地区)に、平安丸を大阪鉄工所に発注しました。シアトル航路は明治29(1896)年に開設され、重要航路の一つでしたが、9千トン級の低速船が配船されていたため、米国、カナダなど列強の優秀船に対抗できる船を建造する必要にせまられていたのです。

【シアトル航路での活躍(戦前)】

昭和5(1930)年4月25日に竣工した氷川丸は、太平洋戦争開戦直前まで一貫してシアトル航路に就航しました。
当時サンフランシスコ航路に就航していた浅間丸型にくらべ載貨重量が大きく、経済性を重視した設計でしたが、船客の評判は上々で、内外の賓客も多数乗船されました。昭和7(1932)年には喜劇央チャップリンが乗船し、昭和12(1937)には昭和天皇の御名代で英国国王の戴冠式に出席された秩父宮ご夫妻が乗船、帰国されました。柔道の嘉納治五郎が東京オリンピック開催誘致の帰途、不帰の客となったのは本船上でした。

【病院船・内航船時代(戦時・直後)】

日米戦争開始直前の昭和16(1941)年10月20日、氷川丸は邦人の引揚船としてシアトル・バンクーバーへ向け出航。11月18日横浜に帰着しました。その後海軍に徴用され、特設海軍病院船として改装されることになりました。
戦時中、3度の触雷にも生き残り、終戦直後は軍人、軍属、一般邦人の復員輸送にあたり、食料や石炭等、重要物資の輸送にも活躍しました。

【シアトル航路への復帰以後(戦後)】

戦後外航海運の民営還元・自営再開の後、ニューヨーク航路や欧州航路に配船されましたが、昭和28(1953)年、11年ぶりにシアトル航路へ復帰。以後、シアトル・バンクーバー定期航路専属船となり、昭和35(1960)年10月まで46航海92便の任務を果たしました。
氷川丸の引退と同時に、明治29年に始まったシアトル定期航路の客船業務から撤退し、氷川丸本船は山下公園に係留され歴史的記念物として保存されることとなりました。


チャップリンは天ぷらとカレーライスが非常にお気に入りだったそうです。









【風波シミュレーション】
強風と荒波が体験できるシミュレーションマシン

乗ってスイッチを入れると、風と共にグオングオンと動き出し、
まさに風に翻弄される船の上に居るような感じがしました。
二回も乗ってしまいました。







デッキの上に出てきました。
望遠鏡の上で海上を眺めるおたま。







船首でタイタニックおたま。









おたまは、猪苗代湖とは雰囲気が違うなあと思っているようです。








「船員の他御断り申上候」

言い回しがカッコいいです。







船長ロボットです。
音声で船の案内をしてくれました。

操舵室には、氷川神社の神棚がありました。








船長室にてくつろぐおたまと友人の帽子。







おたまはいつでもどこでも大満足です。








鐘を鳴らすおたま。








1等客室(シングル)です。豪華です。







17時です。残念ながら時間切れです。
ザンギリ頭の碑や、赤い靴を履いた女の子の碑は見られませんでした。

17時に氷川丸を出て、品川でコインロッカーに入れた荷物をとり、
18:19分発の新幹線に乗っているのってすごいですか?
どうやら、かなりスゴイようです。

友人たちにまかせきりで、その後ろをダッシュで付いていっただけなので・・・
都会の公共交通機関はどうも難しくて苦手です。まかせっきりでごめんよ。







郡山での乗り継ぎがうまくいかず、40分ほど時間が空いてしまいました。
しかし、午後8時を過ぎると軒並み閉店してしまい、時間を潰せません。
緑の窓口も閉まっています。
仕方ないので観光案内チラシでも見る事にします。








郡山でも会津デスティネーションキャンペーン中につき、会津がアツいです。







20:43分発の、郡山発会津若松行きです。
車体にあかべえが描かれています。

やれやれ、磐越西線か〜。一時間以上も乗らなきゃいけないのか、長いな〜。


そんなこんなで、休憩も無しで目一杯動き回って、旅行は無事終了です。
旅行中は一貫して「座りたいなら電車で座れ、腹が減ったら各自、兵糧を食え」です。
休憩なんて時間の無駄です。

普通の人の2泊3日分くらいのボリュームだったと想います。
皆、体が丈夫で健脚揃いのお蔭です。少しの悔いもありません。満足満足。

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