横須賀&浦賀&横浜旅行 3

異国の丘




「ペルリがやってきたという、浦賀を見学しよう」

という事で、浦賀にやってきましたが、何と!!
ペルリに関しては久里浜に行くべきだったようです。
「ペリー公園」があるのも久里浜です。

「ペリー浦賀で人は混み(1853)」と覚えたのになあ(^^;

もう16:00を過ぎているので、戻って出直すには時間がかかりすぎます。
浦賀駅前の地図を見ると、浦賀には会津藩士の墓地があるようです。

「きっと呼ばれたんだよ。墓参りに行ってみますか」

タクシーの運転手に、場所を知っているかどうか聞いてみましたが、会津藩墓地そのものがあまり有名ではないようで、皆知らないようです。うーん。メインの墓所は、かなり大きいはずなんだけどなあ。

それに、会津藩士の墓地は点在しているようで、「知っている」という人でも場所がバラバラです。

「遅くなってきたし、一番近い所でいいですよね」

という事で、タクシーの運ちゃんが知っているという「1メーターで着くよ!」という、最も近い墓地に行ってみることにしました。

浦賀でも、会津藩士は神式で埋葬されていました。
墓の写真は撮りませんでした。





案内してくれたタクシーの運ちゃんが、墓のすぐ近くから海の見える場所を教えてくれました。
そろそろ日が落ちてきました。

もののふ君は、カバンの中で「異国の丘」を歌っていました。

「今日も暮れ行く異国の丘に〜
友よ辛かろ切なかろ〜」

生きて会津に帰りたかっただろうなあ。

予定外の墓参りだったので、何もお供えできませんでした。
やはり、旅先で何があっても良いように、五郎兵衛飴くらいは携帯しておくべきでしたね。

再度、親切なタクシーの運ちゃんの運転で、駅まで帰りました。








せっかくなので、間近で海を見たいと思い、歩いてみることにしました。
友人が「中島三郎助の墓参りがしたい」というので、向かってみることにしました。


地図を見ながらウロウロしていたら、近所にお住まいのおじいさんが話し掛けてきて三郎助の墓がある東林寺への道を教えてくれました。
観音崎へのバスの乗り方も教えてくれました。
でも、時間的に観音崎は無理かもなあ。






浦賀ドックを通り過ぎます。







東林寺に到着です。墓の写真は撮りませんでした。


黒船に最初に乗り込んだ男 中島三郎助

浦賀奉行与力・中島三郎助は、浦賀を代表する人物で、嘉永6年(1853)、ペリー来航の際、最初に黒船(使節団)との折衛にあたるなど敏腕をみせ、翌年、日本最初の様式軍艦・鳳凰丸を建造しました。

三郎助は、文武に優れ、「大衆帰本塚」の碑文を書き、俳号は「木鶏」と称し、人々から敬慕されていました。

明治維新では、幕臣としての意思を貫き、函館の千代ヶ岡台場で2人の息子と共に戦死しました。享年49歳、父子の墓は東林寺。

函館中島村に「中島三郎助父子最後の地」の碑があります。

浦賀行政センター市民協議事業・浦賀探訪くらぶ

墓参りが終わったら、先ほどのおじいさんがこちらに向かってやってきました。
「さっき観音崎への行き方を教えたけど、もう5時になるじゃないか。
変なことを教えて、行けなかったり帰れなくなったりすると困るから、戻ってきたんだよ」

とのこと。親切だなあ。

「観音崎じゃなくて、海が見たいだけなら、燈明崎に一緒に行ってやるよ。船に乗りな!」

「ええ?船?」




船ってこれ?







船だ!







接岸!

おじいさんは家から自転車を取ってきて、一緒に船に乗りました。
向こう岸に渡ります。

我々は山の人間ばかりなので、船に乗っただけで大騒ぎです。








愛宕山公園

明治24年(1891)に開園した市内で一番古い公園で、「浦賀園」と呼ばれました。浦賀奉行所与力・中島三郎助の招魂碑が建立され題字は榎本武揚によって書かれました。開園に出席した人たちの提唱によって浦賀船梁(株)が創設された話は有名です。
咸臨丸出航の碑には乗組員全員の名が刻まれています。与謝野鉄幹、晶子の歌碑は、浦賀を訪れた時に詠んだものです。
江戸時代には鐘撞堂があり、町中に時刻を知らせていました。

浦賀行政センター市民協議事業 浦賀探訪くらぶ

おじいさんが「登ってみるか?」というので、せっかくだから登ってみました。
あまりに急な石段を駆け上ったのと、今日1日歩いた疲労とで、健脚自慢な我々でも太ももが上がらなくなりそうでしたが、
おじいさんはスイスイ登っていきました。






息をきらしながら到着です。
夕日を浴びる咸臨丸出航の碑です。








市政施行70周年記念
横須賀風物百選
咸臨丸出港の碑

嘉永6年(1853)6月3日、米国水師提督ペリーが、黒船四隻を率いて浦賀湾沖に現れました。我国との貿易を進める事が目的でした。

当時、我国は、長崎を外国への門戸としておりました。それが江戸の近くに現れたから大変です。

「泰平の眠りをさます上喜撰たった4はいで夜も寝られず」当時流行した狂歌が、世情の一端をよく物語っています。

7年後の安政7年(1860)、幕府は日米修好通商条約批准書交換のため、米軍艦ポーハタン号で新見豊前守正興を代表とする使節団をワシントンへ送ることにしました。

幕府は、万が一の事故に備えて、軍艦奉行木村攝津守喜毅を指揮者に、勝麟太郎以下90有余名の日本人乗組員で運行する咸臨丸を従わせることにしました。

1月13日、日本人の力で、初めて太平洋横断の壮途につくため、咸臨丸は品川沖で錨をあげました。途中、横浜で、難破した米測量船クーパー号の船員11名を乗せ、16日の夕刻、浦賀に入港しました。

それから二日間、食料や燃料、その他の航海準備作業が行なわれました。意気天をつく若者たちを乗せた咸臨丸は、1月19日午後3時30分、浦賀港を出航しました。不安に満ちた初めての経験と、荒天の中を、39日間かけて、咸臨丸は無事サンフランシスコに入港しました。

米国での大任を果たした咸臨丸が、故国の浦賀に帰港したのは、家々の空高く鯉のぼり舞う万延元年(1860)5月5日でした。

この碑は、日米修好通商百年記念の一環として、咸臨丸太平洋横断の壮挙を永く後世に伝えるため、サンフランシスコに建てられた「咸臨丸入港の碑」と向かい合うように、ゆかりの深いこの地に建てられたものです。

なお、ここ愛宕山公園は、明治26年開園の市内最古の公園です。また、後方に建つ招魂碑の主・中島三郎助は、咸臨丸修理の任にあたったことがあります。

愛宕山公園の階段を駆け下り、一路燈明岬へと、徒歩で向かいます。








船番所跡

浦賀奉行所の出先機関で、享保6年(1721)から明治5年まで、江戸へ出入りするすべての船の乗組員と積荷の検査をする「船改め」を行ない、江戸の経済を動かすほどと言われました。

与力、同心の監督のもと、「三方問屋」と呼ばれる下田と東西浦賀の廻船問屋百件余が、昼夜を通して実務を担当しました。
「入り鉄砲に出女」を取り締まる海の関所としても重要なものでした。

ここが燈明崎か?と思いましたが違ったようです。
沢山の釣り人を左手に、通り過ぎます。








おじいさんが「久保塚って知ってる?」と言うので
「あの久保塚ですか?」
「ここから飛び降りたんだよ」

だそうです。へー!こんな所に住んでいたのか。
海に向かって飛んだというので、きっと空を飛べると思ったんだろうな(笑)

それにしても、おじいさんが久保塚と言うから、時代劇の俳優か何かかな?と思ってしまいました。






浦賀の渡しに乗ってから約40分間歩き続け、ようやく到着です。
おじいさんはボランティアガイドのごとく、色々と話して聞かせてくれたので、長い道程も面白かったです。








燈明堂とその周辺

慶安元年(1648)幕府の命で作られた日本式の灯台である燈明堂は明治5年(1872)までその役割を果たしました。

燈明堂の背後の山には平根山台場が作られ外国船に備えました。平根山砲台は天保8年(1837)日本人漂流民を送り届けに来航した米商船モリソン号を最初に砲撃した台場として知られています。

ここから海岸沿いに海に突き出た所には幕末期に、千代ヶ崎台場が作られました。

燈明堂付近には供養碑などが立ち並び、かつてここが首切場と呼ばれた浦賀奉行所の処刑場だったことが偲ばれます。

首切り場か〜・・・。




海だ!この沖にペルリが!
そういえば、おじいさんの4代前のご先祖はペルリを見たそうです。
ちなみに、おじいさんも発音は「ペリー」ではなく「ペルリ」でした。







波打ち際まで降りてみました。
何度か波を見て、「波はあのラインからはこっちに来ないんだな」と判断してから波打ち際に行ってみたら・・・



ザバー!



ギャー!!





逃げる間もなく、ふくらはぎの真中まで海に浸かりました。
ジーパンも靴下も、靴の中もビチョビチョです。
靴の中で海水がガッポガッポしています。

信じられません。呆然としました。これからまだ歩くのに。


ビチョビチョの靴下をギュ−と絞りましたが、
靴そのものが中まで完全に濡れてしまったのでどうしようもありません。


まあいいや。何とかなるべ。
ってゆーか、どうにもなりません。素足で靴を履きます。
それにしても驚いたな〜、今回の旅で最も印象に残ってしまいましたよ。


山の人間が海で翻弄されている様を見たおじいさんは
「あっはっは」と笑っていました(笑)

おじいさんによると、船が起こした波とか、何回かに一度、大き目の波が来るそうなんです。
そんな事、山から来た人は知りませんでした。






おじいさんが色々と説明してくれています。
おじいさんの手も写りました。

私が波に呑まれた場所は、おじいさんの手の上のあたりです。







燈明堂です。昔の灯台です。








横須賀市指定史跡
燈明堂跡(浦賀燈明堂)
昭和43年2月10日指定

復元なった浦賀燈明堂の建つこの地は、江戸時代に浦賀港の入り口、燈明崎に建っていた燈明堂の跡地である。

燈明堂は、今日の灯台のような役割をする航路標識の施設であった。燈明堂は、慶安元年(1648)幕府の命によって、幕吏石川六左ェ門重勝や能勢小十郎頼隆らが築造したと伝えられている。

石垣を土台として、上に二階建ての建物があった。階下は番人小屋で、階上は四方を紙張障子とその上に金網をめぐらしてあった。

その中には、直系36.4センチ、深さ12.2センチの銅製の大きな燈明皿が置かれ、一晩に灯心百筋と菜種油一升(1.8リットル)が灯され、その光は四海里(7.2キロメートル)に達したという。

当初は勘定奉行の所管となっていたが、後に浦賀奉行に所管替えとなり明治になり神奈川府の所管となった。経費は元禄3年(1690)までは徳川幕府が賄っていたが、同4年からは東浦賀の干鰯問屋が一切を負担するようになった。

明治5年(1872)4月に廃止になるまで、約220年間にわたって一日も休まず夜間の海上安全の守り役として活躍し、我国の灯台史の上で極めて貴重なものである。

建物は明治20年代まで残っていたというが風雨で崩壊してしまい、一抱えもある大きな石で高さ約1.8メートル、幅3.6メートル四方に組み合わされた「切り込みハギ石垣」だけが残された。

燈明堂跡は大正13年3月国の史跡に仮指定されたが、太平洋戦争後解除され、昭和43年2月に市の史跡に指定された。この石垣を利用して、浦賀燈明台が近代建築の技術の粋を結集して当時の姿そのままに復元された。

(起工 昭和63年10月、竣工 平成元年3月)

横須賀市教育委員会



てっきり木造だと思ったら、GRC製木目模様外壁でしたか!
現代の技術はすごいですね。








17:50分です。
日が暮れます。







さようなら浦賀。

我々は、この浜辺からかなり距離のある最寄のバス亭から、バスで駅まで帰ります。
おじいさんは自転車で帰りました。

うーん、本当に個人的にボランティアガイドをして下さったんだなあ。
有難うございました。

それにしても、顔立ちの整った、若々しくて格好いい、健脚なおじいさんでした。

・・・・・・・・・・・・・・

品川に宿を取っていたので、電車で帰ります。
いやー、時間がかかりますね。

その間ずっと海水に濡れた靴を素足で履き続けましたよ(^^;
途中で半ば乾きました(笑)

結局、夕食を食べたのが午後10:00でした。



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