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秋の鶴ヶ城 2

2004.11.8


たまたま休みで天気が良かったので、
昨日行けなかった北出丸と西出丸を補完しました。






鶴ヶ城会館の裏手(南側)にある細道を、西に向かいます。
三岐(みつまた)壕です。
左に見えるのは梨園(現在はテニスコート)です。









ぐるっと回り込んで北出丸の入り口です。








大手前西壕と北出丸東北櫓跡。








追手門跡。








地元では誰も「若松城」なんて呼びませんけどね。









三岐壕を望む。
奥に見えるのは二の丸の梨園(現在はテニスコート)です。







追手門の雁木。
雁木とは幅広い石段もしくは全斜面が石段になっているものを言います。
鶴ヶ城の虎口を囲む石塁の内側は、城兵が自由に移動できるように雁木作りです。









追手門から北出丸へ向かいます。

こういう風に、ちらっと人が入っているのって好きです。
スケール感もよく分かるし。







新政府が売りに出していた鶴ヶ城跡を丸ごと買い取って、
会津松平家に献上した遠藤敬止さん(旧会津藩士)の碑。

ありがとう遠藤さん。

戊辰戦争後、会津はあれだけ酷い目に会ったのに、
鶴ヶ城の敷地そっくりそのまま残っているのは遠藤さんのお蔭です。

城の敷地が切り売りされたら、きっと今の日新館跡地のように
住宅街などになっていたに違いありません。








遠藤さんの碑のあたりから西側を望む。
奥に武徳殿があるはずです。








松五郎さんが人力車を引いていました。








今日、一番綺麗な紅葉はここだと思います。
息を飲むくらいの美しさでした。

目で見た綺麗さが、写真だと半減してしまうんですよね。
どうやったらそのままの美しさを記録できるんだろうか。










赤とオレンジと黄色と緑が微妙なバランスで美しいのです。








三岐壕の水が太陽を反射して、下側から紅葉に当たっているのです。
水面のゆらゆらした光が下側から当たって、夢のように綺麗でしたよ。

光が動いているのは写真じゃ伝わりません。
是非、直接行ってみて下さい。








こんな風に、壕の水が近いのです。










北出丸から椿坂越しに天守閣を望む。
落葉樹だから、葉が落ちて天守閣が良く見えます。夏は見えませんから。

本当だったら、戦闘用の城なら常緑樹で隠しますよね。
それと篭城用に実のなる木を植えます。

これらの桜などの落葉樹は、戊辰戦争後に城の荒廃を嘆いた人が植えたんです。
名前は誰だっけ・・・ええと。これも遠藤さんですが下の名前が出てきません。

「荒城の月」が詠まれたくらいですから、相当荒廃していたのでしょうね。


鶴ヶ城に桜を植えた人と、明治21年に大爆発を起こして荒廃した裏磐梯を嘆いて植樹したのも同じ人だった気がします。

そうそう、どうして磐梯山は「噴火」じゃなくて「爆発」というのかと申しますと、
磐梯山は世にも稀な水蒸気爆発なのです。
マグマで熱せられた地下水が水蒸気となって噴出したのです。
だから、赤い溶岩が噴出する噴火とはちょっと違うのです。





「荒城の月」碑についてちょっとだけ。



参考:荒城の月碑。本丸内にあります。

土井晩翠が、取り壊された鶴ヶ城を詩材として作詞しました。
(仙台市の青葉城でも詩を練ったと言われます。)
滝廉太郎が作曲。
日本の唱歌として、小・中学校で歌われ、また民間でも愛唱されたそうです。

春高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松枝 分けいでし
昔の光 いまいづこ

秋陣営の 霜の色
鳴きゆく雁の 数見せて
植うるつるぎに 照りそひし
昔の光 いまいづこ

いま荒城の 夜半の月
替わらぬ光 誰がためぞ
垣に残るは ただ葛(かずら)
松に歌うは ただ嵐

天上影は 替わらねど
栄枯は移る 世の姿
写さんとてか 今もなほ
嗚呼荒城の 夜半の月


せつない歌詞です。
「千代の松枝」とか「秋陣営」とか、これはやっぱり鶴ヶ城を詠んだ詩ですね。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山本八重子が鶴ヶ城開城の際に詠み、城の壁に簪で刻んだという

明日よりは何処の誰か眺むらん 馴れにし大城に残る月影

にも通じるものを感じます。








北出丸の武徳殿も秋色です。
とにかく北出丸はもみじが綺麗でした。行って良かった。








それでは、西門(棟門)跡を通り抜け、西出丸へ向かってみましょう。

桜の葉はもう終わりですね。ほとんど散ってしまいました。








振り返って、北出丸の石垣を望む。
左端が北出丸西北櫓跡です。









梅坂を北側から望む。
坂道になっている様子がよく分かります。









西出丸大手門跡付近より西側を望む。
西出丸の石垣です。
奥の角が西出丸北西櫓跡です。









では、西出丸へ。

西出丸大手門跡です。











西出丸の石垣に登ってみました。
鶴ヶ城の石垣は、大抵の所に上って良いから好きです。

奥の角が西出丸北西櫓跡です。









西出丸の石垣から北側を望む。

御用人所屋敷だった所ですが、今は会津学鳳高校(旧会津若松女子高)になっています。

ここ出身の友人によると「・・・居るよ」だそうです(^^;
場所も場所ですしね〜。







西出丸北西櫓跡。
全部「跡」だもんなあ・・・。







100年ちょっと前までは、ここに確実に櫓が建っていて、
それに携わる人が136年前まで仕事をしていたんだなあと思うと
本当にしみじみします。

復元された天守閣や走長屋、南走長屋、干飯蔵は本当に素晴らしいですが、
こういう「跡」を見ると、先人達の生きた証を生々しい程に感じて
目頭が熱くなります。









西出丸から西側を望む。
このあたりに「会津藩校・日新館」がありました。

もちろん戊辰で全焼ですけど。あーやだやだ。

遠藤さんが鶴ヶ城の敷地を買い取ってくれなかったら
ここもああなっていたかもしれません。ゾーっとします。

つーか、どうして西軍に金を支払わなきゃならないんだ。
何様だ。







僅かに礎石が残っています。
西出丸南西櫓跡です。

今まで南下していましたが、ここの角で曲がっているので
西出丸石垣を東に進みます。








東に進むと内讃岐門跡が見えてきます。
壕の右側は、鶴ヶ城の米蔵だった場所ですが
現在は一般の住宅が建っています。








内讃岐門跡では、近所のおじーちゃんが昼寝をしていました。
ここには門の櫓があったんでしょうね。








この階段も、かつてここが城として機能していた時には
どういう人たちが上り下りしていたんでしょうね。

随所でしみじみしてしまいます。









実がなっていました。








寝ているおじーさんの隣より、内讃岐門跡を上から撮影。
両側とも、中央が人為的に窪んでいますが、どういう働きをしていたんでしょうか。










内讃岐門の櫓跡から下りて撮影。
右にあるのは、きっとおじーさんの自転車です。








西出丸は現在、駐車場になっています。
でもこの石垣は、きっと城として機能していた当時のままですよね?









という訳で、内讃岐門を後にします。









ラブリーポメラニアンが居たので、写真を撮らせてもらいました。
やっぱり良いわ〜ポメラニアン。

ちょっと白っぽいのもラブリー。








歩く姿もチューリップ唐揚げのようでラブリー。









という訳で、西出丸から本丸へ向かいます。

梅坂の石垣を横から撮影。



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