鶴ヶ城
リニューアル!




新緑眩しい鶴ヶ城です。





鶴ヶ城がリニューアルされました。
2004.4.30が「市民が無料で入れる最終日」だったので
お友達と行ってきました。
※写真が下手でした、残念。







チケット売り場の脇には殿が。








入り口の脇には大きな赤べこが。
新選組の法被を着たおじさんに無料チケットを提示して
塩蔵から中に入ります。



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塩蔵

全国的にも貴重な塩倉の様子を再現しました。
石垣を利用した臨場感が味わえます。




塩蔵には、着物を着た人形がいました。
塩蔵には食べ物が貯蔵されていたのですよね。

これらの石垣の石が、慶山から3kmの道のりを運ばれてきた等の説明がされていました。
石に当たるスポットライトとか、凝っていてびっくり。

石に沿って映像とライトが当たるってことは、
その部分の野づら積みの石の組み方、大きさを計算し尽くして
映像を作成してるって事ですよ。




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一層

「資料で見る歴代藩主」

実物の資料を見ながら鶴ヶ城の歴代藩主とお城の変遷を解説。
CGシアターやギャラリーもあります。

残念ながら写真撮影はできません。


我々にとってはすでに基礎知識な訳ですが(笑)、
歴代藩主の写真や領地が、綺麗な写真や絵がパネルになっていて、楽しく見られました。
「立派になったね〜すごいね〜綺麗だね〜」と友人とい言いながら見ました。

必見なのはCGシアターです。
もう、言葉にならないくらい格好良かったです。
CGも音楽も感動しました。今回のリニューアルで一番心に残りました。
格好良すぎです。

鶴ヶ城の過去と現在が一目で分かるのです。
すでに見たことのある友人が「うっかりすると泣いちゃいますよ(笑)」と言っていたとおり、
昔日の鶴ヶ城の姿が偲ばれて、ちょっと目頭が熱くなりました(笑)

蒲生氏郷が建てた、黒くて7層の鶴ヶ城のCGも格好良かったな〜。

それと、今後復元していく予定なのでしょうか、
太鼓門、月見櫓、御三階が光に包まれて姿を表したり。
ぜひ復元して欲しいです〜。

できるなら、戊辰で灰燼に帰した物、全部。

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※会津出身じゃない友人は普通に「かっこいい」と思っただけだそうです。
このCGを見て目頭が熱くなるかどうかで、会津っ子レベルが分かりそうです。

ちなみに、会津藩士の子孫で、先祖が斗南(現在は青森市在住)に移住したという友人は
うっかり泣いたそうです(笑)
おばーちゃんは、青森県でずっと「会津魂、会津魂」と言っていたそうです。
その友人の先祖は、斗南藩でも、三戸よりももっと北、下北半島まで行ったのだそうです。

私の母方の祖母は、青森県三戸出身のりんご農家だというので、話を聞いてみたところ
家には刀や槍が隠してあったそうです。
そりゃ、もう斗南藩に移住した会津藩士に間違いないでしょう・・・。
旧姓とか聞いてきたので、斗南藩移住名簿みたいなものを見てみようと思っています。
今聞いておかねば、ここで話が途絶えるところでした。
良かった。

母も「自分の母親の事って、知ってるようで全然知らないものだね」と言っていました。皆さんも聞けるうちにどんどん聞きましょう。

私の父方は会津藩士で戊辰で戦死(女性と子供が生き残り)、母方が同じく藩士で斗南に移住・・・。
てことは、戊辰について熱くなっても血のなせる業、仕方ないですね(笑)
めぐり巡って、140年ぶりにその血が会津若松に戻ってきたのですから。

ああそうだ、宮城県出身の友人は、小さい時年配の方々に
「いう事を聞かないと官軍さんがくるよ!!」という風にたしなめられたそうです。
友人はその時「官軍さん」とは何なのか分からなかったそうですが
今ならよく分かるそうです。

宮城県の石巻あたりは、旧幕府軍狩りが行われて、現地の人もかなり酷い目にあったそうですね。
だからそういう比喩をされる訳です。


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2層
「楽しみながら学ぶ江戸時代の会津」

体験的な要素を取り入れて、江戸時代の会津藩を紹介します。

ここは写真撮影ができます。



民具、民芸品、伝統工芸品、郷土料理などが展示されています。







こづゆ。美味しいんですよ〜。
これが手塩椀です。平べったいです。
作り方はこちら。








ニシンの山椒漬け
文化五年(1808)会津藩の蝦夷警備によって会津にもたらされた郷土食です。長方形のニシン鉢に固い身欠きニシン山椒の葉とともに醤油と酢で重石をして漬け込んだ山国会津の保存食で、ニシンは越後から阿賀川の船で運ばれ、女性の行商人によって売られました。鉢はニシン漬け専用につくられ、本郷焼きを代表する製品となっています。

我家の庭には、これを作る為に山椒の木が植えてあります。
しかしニシン鉢ではなく、普通のプラスチックでネジ式の漬物容器で作ります(^^;









棒たら煮
主に正月料理に食される保存食です。
真鱈の素干しを棒鱈といい、水に2〜3日ほど浸して柔らかくし、醤油や砂糖でさらに1〜2日ほどとろ火で煮ます。市内門田一ノ堰六地蔵参詣者のために茶店で出した棒鱈煮が名物で、ゆっくり気長に煮上げる会津独特のおふくろの味です。








会津の田楽
天寧の「奴郎ヶ前」白河街道の背炙峠登り口と東山温泉の湯治客で賑わい、数件の茶店では、丈串にさした餅、里芋、生揚げなどを炭火で焼いた尼味噌のついた田楽が有名だったといいます。向かい側には処刑場山陽河原があり、柵の「矢来の前」が地名の由来とも言われています。処刑人の末期に田楽を食させたという話も伝わっています。








ちょっと小さ目の制札場。







火縄銃。
触ったり構えたりできます。


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藩主の一日

大名の日常生活については不明な点が多く、詳しい事は分かっていませんが、各大名家独自の家風や土地柄もあり、生活や習慣はそれなりに異なっていたと考えられています。また、一般的に江戸時代の各藩は財政が厳しく、意外に大名家の暮らしは質素だったとも言われています。ここでは将軍家やある大名家の資料を参考にしながら、藩主の一日を簡単に再現してみました。


殿の一日がイラストで解説されていました。



藩主の朝は、毎日同じ時刻(午前7時頃)から始まります。小姓たちが起こしに来ると、着替え、洗顔、髪結いなど、身支度を整えます。この後に医師の診察を受けるなどし、体調は管理されていました。身だしなみを整えると、ご先祖様に礼拝し、両親にも挨拶にうかがいました。



江戸時代には武家に対してもしばしば倹約令が出されており、食事は意外に質素なもので量も一定だったのではないでしょうか。何人もの毒見を経ているので、温かいものはすっかり冷めてしまっていたはずです。さすがに儀式や行事など、特別なときには格式にふさわしいものが出たことでしょう。





入浴は朝食後だったといいます。好むと好まざるとに関係なく、「決まりごと」として入るのが日課だったのです。湯殿の中には風呂の世話をする側坊主がいましたが、身分が違うので会話ができず、不都合が多かったといいます。





幕府によって、藩内の政治は藩主である各大名が行なうことが認められていました。藩主が国に居るときには、家臣たちの前で政治的な仕事を行ないました。江戸に居るときには、家臣が政治を分担しその報告を受けていました。





午前中の政務の後、午後からは学問や武芸に励むことも、藩主の務めとされていました。学問は儒教を中心に漢詩や和歌も修め、泰平の世とはいえ、一軍の将として馬術や弓術といった武芸に通じていることも求められていたのです。





夕食後の少ない自由時間の後、午後11時ごろに就寝の時刻を迎えます。規則正しい大名の生活では、就寝の時間もしっかりと決められていました。就寝中も小姓たちが交代で不寝番をして、常に身辺を守っていました。


江戸での生活
藩主は国元へも帰ってきますが、実は一生の半分近くを江戸で過ごしました。参勤交代の制度によって、大名は一年交代で江戸と国元を交互に移り住んだのです。江戸在府中、基本的には同じ生活様式ですが、将軍との謁見のために江戸城に登城するなど、異なる役目も沢山ありました。このように江戸と国元を往復する二重生活は、藩主にとっても藩にとっても、大きな負担となっていました。


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また、床の間つきの畳敷きの一角があり、
打ち掛けなどを羽織って記念撮影できます。
我々は着なかったので写真はありません。


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3層
錦絵で描く会津戊辰戦争

写真撮影はたぶん出来なかったと思います。
戊辰関係の書籍でよく見かける錦絵が
大きなパネルで、解説付きで見られます。

有名な「大政奉還」の絵で、右側の上座に座って慶喜を見つめている人が
松平容保です。注釈がないですけど、注意して見てください(^^)




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4層
「会津城下の四季と賑わい」

季節ごとに城下の風物詩を紹介します。城下で行なわれた年中行事の雰囲気を歩きながら感じるフロアです。

パネル展示です。
パネルごとに音声や音楽が真上から聞こえてきます。
セミの声が聞こえた時は、本物かと思ってびっくりしました。
今、4月なので。


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5層
「城下町を眺める」

展示の余韻に浸りながら城下町を一望できる展望フロアです。市内の関連施設や名所、旧跡を最上階から眺めてみませんか。




眺めてみました。新緑が萌えています。






若々しい緑色です。


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天守閣を降りて、南走り長屋干飯櫓へ。




南走り長屋は、鶴ヶ城が城として機能していた時の様子を復元しています。






開国した後、アメリカよりもイギリスやフランスとの交流が多くなったのは何故?
アメリカ国内で「南北戦争」がおきたから。ヨーロッパの国々もアメリカ向けに新しい武器を作って輸出しました。1865年に戦争が終結したので、日本が新たな輸出先となったのです。


友人いわく
孝明天皇が、こんなに諸外国の情勢について明るいはずがないよ(笑)」

あはは(笑)

あ、干飯櫓の写真が無い・・・。
また何かの折にでも。


鶴ヶ城リニューアル情報はこちらをご覧ください。


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