二本松城(霞ヶ城)


敷地内をご一緒に回遊しましょう。

青字はキャプションより引用。


本丸石垣のご案内

本丸周囲の石垣は、江戸時代の初期(慶長年間)から後半期にわたる、各時代の特徴ある城郭石積み技法により構築されております。
その本丸石垣を、平成5年より3ヵ年事業で江戸時代当時の技法を駆使し、それぞれの時期の特徴を活かした修築復元を行ないました。
城郭石積み技法の変遷が説明表示してありますので、是非ご覧下さい。

二本松市


という事で、←方向に進みます。
本丸石垣を見に行きましょう。







智恵子の藤棚

元二本松町長今泉氏が自宅の庭にあったものを寄贈したもので、これは智恵子の生家の庭にあった藤の木です。

二本松観光協会

5月頃に来たら、藤が見事なんでしょうねえ〜。
藤って香りが良くて好きです。








傾斜になっているのが分かりますか?
霞ヶ城は「平山城」だそうです。
ずーっと歩いて行きます。

菊人形会場は大盛況で人が沢山いましたが、
こちらまで来る人はあまりおらず、落ち着いて良い感じでした。

あ、写真を撮っているといつも置いていかれます。






紅葉が日光に当たって綺麗です。







  

二本松市指定有形文化財

名称:洗心亭

木造萱葺き、寄せ棟平屋造り。床、棚、書院等を付す六畳の座敷のほかに2室を並列し、東と北にぬれ縁を回し、背面に浴室、便所などを備え、天井をはじめ、諸造作に数奇屋風の手法を取り入れている。
この洗心亭は、城内にいくつかあった茶亭のひとつで、墨絵の御茶屋と言われ、天保8年(2837)、崖崩れのため阿武隈川畔・地蔵河原に移築して、藩主の釣茶屋として利用した。
明治30年(1897)、現在地に庭園内施設のひとつとして復元された。
創建年代は17世紀中頃と推定できる。

昭和51年7月21日指定
二本松市教育委員会

いいなあ、こんなに風流な建物でまったりできた殿様は・・・。






菊人形会場が池の向こうに見えます。
手前にある帆が、先ほどの宝船です。








ずーっと歩いて(登って)ゆきます。
広い〜。広すぎる〜。なにこの敷地の広さは?

ちょっとジェラシー。

手入れの行き届いた庭園って感じです。










また置いていかれています。









巨大な松を発見!!
陣笠みたい。

二本松市指定天然記念物

名称:霞ヶ城の傘マツ

「八千代の松」と言われるアカマツの巨木で、根元周囲3m、目通り幹囲3.9m、樹高約4.5mあり、地上1.6mで3枝している。南の支幹は枯死し、中央の支幹は周囲2.2m、北の支幹は1.5mあり、東西に約14メートルで傘状に広がっている。
推定樹齢約300年といわれ、樹勢も旺盛であり、独特の形状を呈している。

昭和51年7月21日指定
二本松市教育委員会







二本松市指定天然記念物

名称:二本松城跡のイロハカエデ

「傘マツ」の西、園路の左斜面下部に植えられているイロハカエデである。
根元は斜面に沿って西側が東側より1.3mほど高く、高所面における根回りが3.5mあり、高所の根元から約0.5mのところで3本の幹に分かれ、さらに上部で枝分かれし、東西17m、南北15mに枝を張り、樹高が約12mでやや南東に傾いている。
小枝が複雑に張り楓特有の樹形を示すとともに、幹は所々こぶ状をなし古木の観を呈し、秋季には見事な紅葉を見ることができる。樹齢350年から400年であるが樹勢は旺盛である。
二本松城においては、寛永年間から明治年間にかけて「るり沼」周辺の回遊式庭園をはじめとする庭園の整備が行なわれており、そのとき植えられたと思われる楓の古木が多く見られ、このイロハカエデはその代表的なものである。

二本松市教育委員会

鶴ヶ城よりもイロイロ残っているみたいで羨ましいです。

まあ、鶴ヶ城は砲弾を一日に2500発込まれ続けたんですから
仕方ないですね。








城のある山なのに滝がありました。
そういえば、先ほどの池も平地じゃないところにありました。
ちょっと調べたところによると、安達太良山から人工的に水を引いているらしいです。
おそらく、現代の技術ではない時代のものかと。
すごーい。

水も緑も東屋もあります。
近所に住んでいたら、まったりしに来たいです。

マイナスイオンとフィトンチッドで癒されちゃいます。







  

階段を登って、智恵子抄詩碑に行ってみます。

かなりの高台じゃありませんか。
これで平山城なら、山城は大変ですね。








知恵子抄詩碑

明治から昭和にかけて詩人として、また彫刻家として有名な高村光太郎【明治16年(1883)〜昭和31年(1956)】が、亡き夫人・智恵子【安達町出身。明治19年(1886)〜昭和13年(1938)】の生涯を痛切な鎮魂の思いを込めて執筆した詩集「智恵子抄」は、いまでも読む人の心に感動を与えています。
当詩碑は詩集中の「樹下の2人」の冒頭の句で、2人の純愛を永く後世に伝えようと、市内有志および詩人・草野心平らの尽力により昭和35年(1960)5月22日に建てられました。
この二つの露頭石は、二本松城を築く際に「夫婦の牛」をいけにえにしたところ、牛の霊は天に昇り、身は石と化したという伝説の石「牛石」と呼ばれています。なお、小さい碑石にも同詩集より「あどけない話」の1節が刻まれています。

二本松市




皆で牛石の間に入ってみました。
きっと、右が牡牛で左が牝牛です。

雲ひとつ無い晴天なので、光が強すぎて
写真がうまく撮れません。









二本松少年隊・・・。
戊辰で戦って散った少年達です。
いまいち知名度が低いのが残念。
彼らの存在を、もっと世の中に知らしめていかねばなりません。

二本松少年隊顕彰碑
この一帯の平坦地は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで砲術道場で学ぶ少年達が稽古を行なった場所といわれています。
当碑は、昭和15年(1940)の紀元2600年記念事業にあたり、戊辰戦争に出陣した少年隊士の顕彰を目的に、町一丸となってこのゆかりの地に建立したものです。




霞ヶ城の入り口にあった銅像と同じ構図のレリーフが。
裏にはこんな言葉が刻まれていました。

二本松少年隊の悲壮な最期は、維新の夜明けに消え行く小さな星であった。
明治100年にあたり、郷土の誇りとしてその事跡を永く後世に伝える為、在京在郷有志之を建てる

昭和43年11月3日
二本松少年隊百年祭協賛会





白虎隊剣舞の時の詩吟と同じようなものでしょうか?
漢字を追うと、何となく意味がわかります。











左に進んで搦手門へ。
日影の井戸には帰りのルートで寄ることにします。









趣のある道です。

また置いていかれました。





  

搦手門です。
キャプションが無かった気がします。
どういう形の門だったんでしょうね?











それではいよいよ、本丸石垣でございます。

斜面が急です。
翌日筋肉痛にもならず、平気でしたが。
・・・一人を除いて(^^;


本丸石垣へ