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京都守護職会津藩

新選組ツアー in 京都


3日目
(1)




二条城です。
二条城→京都所司代屋敷跡→京都守護職屋敷跡→御所
という順路で進みます。





二条城について

二条城は、1603年徳川初代将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代家光により、伏見城の遺構を移すなどして、1626年完成したものです。

したがって、豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構
家康
がたてた慶長年間の建築と、
家光がつくらせた絵画、彫刻などが綜合されて、
いわゆる桃山時代様式の全貌をこの城に見ることができます。







では中へ進みます。
鶴ヶ城の鉄門も鉄で覆われていますが、二条城とは雰囲気が違います。










二条城は、ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)で採択された世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約に基づき、「古都京都の文化財」のひとつとして世界遺産リストに登録されました。

このことは、人類全体の利益のために保護する価値のある文化遺産として、とくに優れて普遍的価値をもっていることを国際的に認められたことになります。

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二条城は、慶長8年(1603)に徳川幕府により京都御所の守護と将軍上洛の時の宿泊所として造営され、その後寛永3年(1626)に大規模な拡張・修復工事が行なわれました。

現在の二の丸御殿は基本的にはこの時のもので、このほか本丸内には弘化4年(1847)に造営された旧桂宮御殿が移築されています。

二の丸御殿は武家風書院造を代表する建築で、その主要部は遠侍及び車寄、式台、大広間、蘇鉄の間、黒書院、白書院の各殿舎からなり、これらが二の丸庭園の池に沿って雁行形に配されています。

内部は、床の高さや天井の形、座敷飾り等によって各室に差異をつけながら配されており、また各室は部屋の目的に応じて障壁画が描かれ、欄間彫刻、飾り金具、釘隠し等が豪華に飾られるなどの意匠が凝らされています。

この御殿の西に大広間から眺められるように造られた二の丸庭園は池泉廻遊式の庭園で、池の法面や護岸に多くの豪華な石組みを配するとともに、池の中に3つの島、奥に3段の滝を設けており、その力強い意匠は豪壮な建築群とよく調和しています。

登録年月日 平成6年(1994)12月15日決定 17日登録









重要文化財 築地塀

この塀を築地塀、俗に筋塀という。
柱を立て板を芯として泥でぬり、柱と柱の間に横板を入れ屋根を瓦でふいた塀をいう。
古くは泥をつき固めた今の土手のようなもので、公卿、殿上人の家の囲いとして用いられた。
塀の横線を定規筋といい、御所、門跡寺院、高家の塀につけられた筋で、5線を最上とした。

現在京都御所、東西両本願寺、門跡寺院の塀に見られる。









この五本の定規線は、会津だと長命寺で見ることができます。










元離宮二条城

慶長7年(1602)、徳川家康の命により、奉行板倉勝重が差配、市中の多数の労役者の力により着工され、翌年3月に完成した。

京都の守護と上洛の際の宿泊がその目的で、二条新御所などと呼ばれ、はじめは小規模のものであった。家康の征夷大将軍の拝賀および二代秀忠の将軍宣下は、この二条城で行なわれた。

その後も、造営は続けられ、伏見城の遺構をここに移し、寛永3年(1626)、3代将軍家光が、ここに後水尾天皇を迎えた頃、その規模はもっと拡大され、五層の天守閣も備えていた。

しかし寛延3年(1750)、落雷のため天守閣を焼失、また天明8年(1788)には市中の大火にあい、本丸御殿、櫓の多くを焼失した。

文久3年(1863)、14代将軍家茂が入城、攘夷の実行を誓い、また慶応3年(1867)には15代将軍慶喜が、この城中で大政奉還を決意し、上表の使者を出している。

明治4年、二の丸内に京都府庁が設置され、明治17年宮内省に属し、二条離宮と改称、明治26,7年には本丸御殿に京都御所にあった桂宮御殿が移築され、本丸御殿と呼称されている。昭和14年(1939)、京都市の所有に移り、史跡に指定された。

城構は平城で、本丸、二の丸の二部よりなり、周囲には幅13mないし17mの壕をめぐらし、東西約480m、南北360mあり国宝二の丸御殿をはじめ、台所、御清所、東南・西南両隅櫓、東・北大手門、土蔵、本丸御殿などの重要文化財がある。









唐門から二の丸御殿へ。








日光東照宮みたいです。








車寄せ。
書籍でよく見るアングルで撮影してみました。
二の丸御殿は建物面積3300u、部屋数33、畳は800畳余り敷かれています。







ここからは撮影禁止なので写真はありません。
うぐいす張りの廊下は随所でピヨピヨしていました。

障壁画を保護するために障子戸は全て閉まっており、
二の丸御殿の中から庭園を鑑賞することは出来ません。
仕方ないことですけど残念。

大広間の「一の間」と「二の間」は開け放たれ、大政奉還の様子を彷彿とさせました。
「大政奉還ごっこ」は、流石にできる雰囲気ではないのでやめました(笑)

それにしても、年表を見ると、ほとんど使ってないんですね二条城って。
「留守居」として大番頭4名、番士50人を置いて、ずーっと使っていないみたいです。
贅沢〜。








大きな鐘が二つ。








釣鐘について

この鐘は、幕末の政変の時期、二条城と北側の所司代との連絡に使われたものです。

鐘は二条城所司代に設置され、二条城では東北隅の長櫓跡に所司代の千本屋敷から火の見櫓を移築し、鐘楼も建て、鐘が設置された。

明治時代二条城に京都府が置かれた時も非常時に備え使用されていた。幕府の政務の場であった二条城と所司代は、幕末の混乱の中、朝廷側との政争で緊迫していた。
薩摩、長州など朝廷側の動向に備え、鳥羽伏見の開戦など非常時の連絡を告げ住民にも知らせるため鳴らされたものです。

お金持ちのダンナ様が「チリンチリン」とメイドを呼ぶかのごとく、
この鐘で京都所司代の定敬様が呼びつけられていたりして?

すげー。







二の丸御殿を出て、庭園を回遊します。









特別名勝
二条城二の丸庭園

を中心とした庭で、三つの島を置き、四つの橋を架け、西北隅にを落とし、池の汀に多くの岩石を配した景観は変化に富んで秀麗であり、豪壮な趣がある。

庭園は大広間の西、黒書院の南に位置し、主として大広間から鑑賞せらるのであるが、寛永3年後水尾天皇御幸の際、行幸御殿が庭園の南に設けられた関係で、庭園南部の石組みに変更を加えた形跡が見られる

作庭年代については、記録や作風から推して慶長7,8年頃二条城が造られた時にその建築に調和させて築造せられたもので、後水之尾天皇御幸の際一部改修を加えられ今日に至ったものと考へられる。

そしてその作風は桃山末期乃至(ないし)江戸初期に大成された書院造りの大建築に伴う庭園の特徴をよく示し、現存歴史的庭園中の優秀作品の1つに数えられる。








荒々しい岩石がポイント?の庭園。
ちょっと荒涼とした感じがします。







「クエー!」








二の丸から本丸に向かいます。










本丸櫓門をくぐります。








本丸

本丸は1626年、3代将軍家光により増築したもの。もとは城内に高くそびえ壮麗を誇っていた5層の天守閣がありましたが、1750年、雷火により焼失、また1788年には大火による類焼本丸内の殿舎をもなくしました。

現在の建物は、もと京都御所にあった旧桂宮御殿を1893〜94にわたりここに移し建てられたものです。この建物は1847年に建てられたもので、宮御殿の遺構としては完全な形で残っている唯一のものです。









では天守閣跡に登ってみる事にします。







急な階段です。









おおー。
本丸内が見渡せます。









部分的には紅葉している木もありました。









銀杏も、日当たりのよい所ではすでに散り始めていました。








それでは、二条城を出て定敬様の京都所司代屋敷跡へと向かいます。

京都所司代屋敷跡へ


参考資料:施設でもらったパンフレット、解説板