京都守護職会津藩

新選組ツアー in 京都


3日目
(2)


京都所司代碑です。

会津藩主で京都守護職の松平容保公の実の弟君である松平定敬公が、
幕末の京都所司代でした。(桑名藩主でもあり)



よく見かける石碑がありました。

でもさ、書籍だと、切り取ったように石碑だけしか写ってないじゃないですか。
「見たいのは石じゃないんだけどな〜」って思いませんか?









これだと、ちょっとはどんな場所だか分かるかな。










こんな感じ。
京都所司代屋敷跡は廃校(たぶん)になっていました。









京都所司代上屋敷跡

ここより西方大宮通り辺までは(北は丸太町通り、南は竹屋町通り)京都所司代上屋敷があった所である。

所司代の名称、役職は、室町幕府の侍所にはじまり、徳川幕府に受け継がれた。

徳川時代の所司代は、関ヶ原合戦の直後設けられ、皇室・公家の監視京都諸役人の統率京都町方の取り締まり(町方は、のち京都町奉行がおこなった)

さらに近畿八カ国の訴訟処理西国33か国の大名の動静監視など強い権限をもつもので、幕府の老中につぐ最重要役職であった。

初代奥平氏のあと、2代、3代は板倉勝重・重宗父子が任じられ、とくに重宗は名所司代のほまれ高く、京都市政の根本法規を制定した。

以後、幕末まで58人が任じられた。文久2年(1862)京都守護職が設けられると、所司代はその管轄下に属し、王政復古によって廃止された。

跡地には、明治3年、我が国最初の中学校京都府立京都第一中学校が建てられた。

京都市

京都所司代屋敷はかなりの敷地です。
地図を見るとびっくりします。
そして、ここだけじゃないのもすごいです。

会津藩主・京都守護職=松平容保(かたもり)公




桑名藩主・京都所司代=松平定敬(さだあき)公


2人とも、薪を背負って燃えさかる火に飛び込んだと例えられます。
それだけの決意で、京都守護職と京都所司代の任に就いたのです。







京都所司代屋敷跡の南側には
二条城が見えますよ。近い。
二条城からの鐘でゴーンと呼ばれたら、すぐ到着できそうです。


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