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蒲生氏郷の墓
がもううじさとのはか


限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき 春の山風

(蒲生氏郷辞世の歌)




蒲生氏郷の墓

天正18年(1590)天下統一を果たした
秀吉は、信長にも仕えた戦国武将の蒲生氏郷奥羽の押さえとして会津に封じた。

氏郷は
黒川といったこの町を郷里(滋賀県日野市)の森の名にちなみ「若松」と名づけた。

また
鶴ヶ城や城下町を整備し、漆器産業を植え付け文化興隆にも力を注いだ。

しかし会津の領主となって僅かに
5年後に、文武両道に秀でた氏郷も、病のため京都で不帰の人となった。

興徳寺の五輪塔には
遺髪が収められ、辞世の歌碑も建っている。


春に撮影していた写真でレポを作成しました。

解説はキャプションより引用&抜粋。




蒲生氏郷公(1556〜1595)

蒲生氏郷は江州(
滋賀県)日野城主蒲生賢秀の子。織田信長に仕えその婿となつた。

後、豊臣秀吉に属し、
天正18年(1590)会津入封。

天下人秀吉の
奥州仕置を任地に代表、奥州の都督を以って目され、治府若松は東北の都と謳われた。

黒川の旧称が若松の新称に改まるのもこの時である。

はじめ近江商人の町日野、ついで伊勢商人のふるさと松坂に封を受けた氏郷は、蒲生第三の都市にもその伝統を写して、
城下町若松を商売繁盛の町とした。

何よりも七層(今五層)の天守、四方石垣の整然とめぐる名城
鶴ヶ城が、名将最大の後世への遺産となった。

利休七哲の随一に数えられた数奇大名氏郷の面影は、鶴ヶ城の一角に復元された茶亭麟閣にしのばれる。利休次子少庵ゆかりのもの。

利休切腹後、氏郷は彼を保護し、
千家再興に道を開いた。

霊名を「レオ飛騨」と称した氏郷は東北切支丹の先がけでもあつた。

文禄四年(1595)2月7日、40歳を一期に英雄は都に逝いた。

「限りあれば吹かねど花は散るものを心短き春の山風」

花のあはれをかさねよんだ
優婉な辞世の歌が後に残された。

遺髪を納めた興徳寺五輪の塔が、永くその英魂を弔っている。



しみじみとしたステキな歌です。
もののふなのに風流を解しています。

あまりに有能な人物だったので毒殺された、という説もあるようです。
辞世の「心みじかき・・・」というのが、何となくそれっぽいような気もします。




興徳寺は、今より七百数年前の弘安10年この地に創建された格式の寺である。

郭内にあった唯一の寺(臨済宗)であつたが、戊辰の兵火に罹り、伽藍は昔日の面影はない。

豊臣秀吉
公が400年前奥州仕置きの際、この寺を庁舎とした事でも有名である。


実は、ここ会津が秀吉最北端の地になります。







門の扉には、会津葵の紋があります。
徳川宗家との違いは、葉の模様の数で判断します。






「戊辰の兵火により、昔日の面影はない」とあるとおり、現代風な寺になっています。

戊辰のせいで、大切な物は何もかも焼失です。








じつは雨だったのです。
墓所のあたり全景。








近付いてみても、天気が悪いのでよく分かりませんよね。








という訳で、以前に撮影しておいた写真です。

辞世の歌の時期でした。綺麗に撮れました(^^)

ソメイヨシノが終了で、八重桜の時期でした。








五輪の塔です。
カッコイイ〜。
こういう墓に入りたいかも。







五輪塔に空、風、火、水、地と五文字が刻んである。
万物の構成要素、宇宙の元素を表現したもの。

氏郷没後の翌年、
子息の秀行によって建塔された五輪塔(墓)である。
当時、
御霊屋があったが戊辰の兵火で焼失した。

因みに、氏郷公夫人
冬姫(信長の息女)は、寛永18年(1641)5月九日没。
行年84歳。京都
智恩寺墓地に眠る。









春に来た時に、この看板はありませんでした。
なのでちょっと大きめに載せてみます。

・・・どうして岩手に?
会津にあってこそ、意味と価値が倍増すると思うのですが。







文武両道に秀でていた氏郷は
歌や漢詩もかっこよくこなします。



そういえば、氏郷の時代って、鶴ヶ城は7層だったんですよね。
その後、加藤氏の時代に地震で壊れて修理することになるのですが、
江戸城が5層だったので、7層にするのは憚られて
現在の5層になったそうです。

うーん、7層の鶴ヶ城・・・どんな風だったんでしょうね。
安土城みたいな感じかも。

天守閣が一部再現されている「レオ氏郷南蛮館」レポは
もうしばらくお待ちください。


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