龍興寺
りゅうこうじ



龍興寺は会津高田町にあります。
国宝一字蓮台法華経蓮の花が有名です。




駐車場に入ったら、この蓮がパアッと目に飛び込んできました。
花弁が透けるように美しくて驚きました。

「うわー!!何これ!!蓮ってこんなに綺麗なの!?」
「すごーいすごーい!すごいね!」
「来て良かったよ〜!城の堀にも咲いてるけど、上から見下ろすだけだから」

と、大興奮です。

「こうやって見るとさ、蓮が極楽の花だってのがよく分かるよね」

というのが共通した結論です。
昔の人も、同じ気持ちでこの花を眺めたから、そういう設定になったのでしょう。

↑これは「大賀蓮」(2000年前の種から発芽した古代蓮)ではないかと思うのですが
1つの池に7種類咲いているので確信は持てません(^^;
詳しい方教えてください。
もしかしたら「中尊寺古蓮」(中尊寺金色堂須弥壇の下から発見された800年前の種子から発芽)かも?







蓮池は本堂の裏側(北側)にあります。







沢山咲いていましたが、やはりこの蓮が一番好きです。

蓮って、花弁がちょっと肉厚で、縦に筋が入っているものしか知らなかったのですが
こんなに繊細な花弁の蓮もあったんですね。

友人いわく
「蓮のような女になりたい。泥の中から美しく咲く蓮のような女に!」

・・・同感だね〜ホント(笑)



  

蓮が咲いている池には、綺麗に水草が生えています。
そこにはオタマジャクシやタニシが元気に生息しています。
タニシが歩いているのって、初めてみました。
へばりついているのはよく見ますけど。







これこれ、蓮っていうとこういう花弁を想像していました。
だから先ほどの蓮の花弁の繊細さにびっくりしたのです。

これはこれで綺麗ですけよね。

これは「原始蓮」かなあ?








蕾です。








こうやって見ると、お寺の本堂に飾ってある
金色の作り物の蓮の花って、良く出来てるな〜と思いました。








池を後にし、本堂の正面にやってきました。
地面に蓮を入れた大きな器が埋設してあり、そこにも沢山の蓮が咲いていました。

これは「精花」かな?「黄陽蓮」かな?







これが本当の散華です。








「月のうさぎ」です。










本堂の正面です。
右側には藤棚が見えます。

 
 龍興寺の名の由来


嘉祥年中(848〜50)慈覚大師の開山である。
正式には「天台宗・道樹山龍興寺玉泉院華芳坊」という。

慈覚大師がに渡った時、揚州にある龍興寺に行ったが、その地形が会津の高田とよく似ていたところから、同じ寺名の「龍興寺」と名付けたと言い伝えられている。

「会津寺院縁起」によると、寛文5年(1665)までの約800年間は17代の住持が続いた。

その後、応安年中(1368〜74)、恵雲という僧が慈覚大師を慕って当寺を再興した。

約200年後の29世の舜幸法師の時、名僧と言われた天海がここで得度している。

寛永6年(1629)に高田は大火に見舞われ、当寺も類焼し、多くの寺宝、文書等を焼失してしまったのである。

以後、120年余り草堂のまま廃寺寸前のところ、45世万慶住職により、宝暦4年(1754)より11年の歳月を要して復興される。

しかし、明治20年、再度の類焼により、昔日の面影の全てを失ってしまう。

新しい本堂は、昭和63年に建立されたものである。




 天海大僧正

家康、秀忠、家光の、三代の帰依をうけた人物。

この龍興寺の南(JA会館のあたりか?)に生まれたという。高田の出生であることには間違いない。

天海が11歳の時、「この龍興寺で出家したい」という強い望みにより、当時の舜幸住職による得度の式を挙げ、名を隋風と称し、号を無心と呼ぶようになる。

頭脳明晰、抜群の知能、篤き信心を示したという。仏法のみならず、儒学、史学、詩書等、当時の学問全てに精通していたことが、後の天海が世にもてはやされる基となったと思われる。

後、足利学校比叡山で学び、武田信玄の客人となる。

無論、会津の葦名盛氏の知遇も受け、さらに川越の仙波無量寿寺を学問所とし、江戸崎不動院を中興と、華々しい活躍をする。

この頃から徳川家康に目をかけられていくようになり、その後の天海大僧正の業績巷間広く伝えられているところであるが、逸話は逸話を生み、事実と言い伝えとが交錯して膨らんでいった事を考慮しなければならない。






国宝・一字蓮台法華経の一部をズームアップしてみました。
本堂内に「本物の一部を撮影して印刷したもの」が展示してあり、
それをさらに撮影させていただきました。


 国宝・一字蓮台法華経開結共

この経巻は、今からおよそ800有余年前平安後期に、30名によって結縁書写された。
もとは10巻あったが、残念ながら第6巻の部分が欠けて9巻となっている。

これは法華経開経・結経(序論と結びにあたる経典)とを書写したもので、誠に見事な筆致で、心を集中して書いた美しい写経である。

朱、金、青、緑、白に綺麗に彩色された蓮台に、一字一字全て丁寧に書いてある。
用紙は斐紙という極上の紙を用いて、縦が29cm、全長は9m90cmに及ぶ。

この斐紙に銀の境界線を引いて、一字一字を一行17文字詰めに奉安墨書されており、その色目を通観するに、菱形方形、斜め雁行、また横平行と周到入念な彩色が施されている。

総字数69,384字楷書である。
六万九千三八四、一一文文是真佛」と崇め、これを釈尊の全思想生命と信じて、一字一佛、一字三礼の真摯な如法写経の心と態度を具現した最高の荘厳法を用いている。

一字ごとに祈りを込めて書く願経で、それこそ命を捧げつくして写経した人々の極楽浄土を現したいという願望が強く感じられる。
特に、第3巻と第6巻はおそらく女性の筆ではないかと言われている。

この法華経が平成の世にまで残っていたことは奇跡に近い。この種の写経は好事家によりズタズタに切り取られ、散逸してしまうのが常である。それがこのように現存した理由の一つは、天台宗の根本経典である法華経だったので、代々の住職により密かに気をいれて守り伝えられたためであろう。

また、文化6年(1809)に成立した「新編会津風土記」にはこの法華経のことが記載されていないのである。この「記載漏れ」が、逆に好事家の餌食から守るという結果をもたらした。

龍興寺が応安、寛永、明治と、中世以来たどった度々の災厄を乗り越え、しかも経巻という脆弱な材質にも関わらず、長い歳月大衆と共に篤く護持されてきたことは誠に驚くべき事実である。

筆者、願主は不明であるが、筆跡の隅々までピーンと張り詰めているこの写経は、いつまでも見飽きることはない。

全国的に見て実に希少価値高い貴重な文化遺産であり、「藤原時代四大荘厳経」の1つとして、平家納経、久能寺経、中尊寺経とならび称されている逸品なのである。

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住職さんによると、「無住の時期もあり、さらに紙という弱い材質、持ち運びできる大きさなのに、800年以上も残っているのはすごいことなんですよ」との事。

おっしゃるとおりです。

字の下に蓮台があるということは、↑にも書きましたが、文字ひとつひとつを「仏」として書いているんですよね。

仏を書くごとに祈りをささげ、また書く・・・。すごいことです。
特に信心深い訳ではないのですが、そういうのって良いなと思います。




  

蓮台と蓮華。







龍興寺を後にし、会津高田の伊佐須美神社のお田植祭りを見てきました。
そして帰ってきたら・・・蓮が閉じてる!!





お寺の方に「皆さん運が良いですよ。蓮は普通、10時くらいで閉じてしまうんです。今日は曇りなので、たまたま咲いていたんですよ」と言われたとおり、午後も遅くなったらすっかり閉じていました。

私たちが蓮を見ていたのが午後1時過ぎですから、本当にラッキーでした(^^)


※伊佐須美神社のお田植祭りレポは後ほど。

参考資料

・会津の寺(耶麻、河沼、大沼、南会津の寺々)
歴史春秋社

・龍興寺のパンフレット

など。

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