新宮熊野神社 長床

行く歳 来る歳 絵ろうそく祭り


2004年大晦日〜2005年元旦




ポスターです。
長床LOVEなので行ってきました。







キャプションは文字が薄れて解読が困難です。

新宮城跡

東北地方の中世の開幕は、文治五年(1189)源頼朝の奥州平泉征討に参加した関東武士団の東北移住によって始まり、この時、会津領有を命じられた佐原十郎義連の□一族分別により義連の孫新宮六郎右衛門□□□□・・・(1212)この城を築いたという。規模は、本丸東西70間(約□m)南北82間(約□m)、二の丸、三の丸とあり内堀外堀□□□・・・本丸は一段と高く、往時の□をとどめている。発掘調査に□□□□□・・・幅8mの土塁跡幅5m深さ2mの□□状の□、さらに東約70mに幅約8m深さ□mの外堀□□□□□・・・・・・耶麻半郡を領していた□□□・・・葦名氏とたびたび争い、六代新宮□郎盛□の時、応永□□年(142□)ついに落城した。

喜多方市教育委員会

意味は何となく分かりますが・・・やっぱりよく分かりません。

中世、この地に城を築いた新宮氏という勢力が居たという事です。











新宮熊野神社

平安中期の1051年奥州平定を命じられた鎮守府将軍源頼義とその子義家は、紀州熊野三所に武運を祈願し、前九年の役(1051〜62)に勝利したのを期に1055年河沼郡熊野堂村(現河東町)熊野三社を勧請した。

後三年の役(1083〜7)
の兵乱が始まった1085年、八幡太郎義家によって熊野堂村からこの地に移された。

当初は本村に新宮、岩沢村に本宮、宇津野村に郡智殿が別個にまつられたが、後にこの地に三社が合祀された。

「新宮雑葉記」によれば、盛時には3百余の末社霊堂多くの宗徒、百人余の神職を置き、国家の安全を祈願し、奥州の熊野と称され崇拝されたという。

1189年佐原義連によって寺社領悉く没収されたが、1192年、源頼朝より社供二百町を賜り、かつ文殊菩薩の形像を安置せられた。

また、当時の地頭新宮氏によって以前の栄耀をみるに至ったが、打ち続く戦乱と1611年の大地震で多くの建物は倒壊した。

1614年に再建されたが、昔の面影は失われ、ただ拝殿(長床)のみが当時の壮大さを伝えている。










注連縄が立派です。









鳥居から長床(拝殿)までは絵ろうそくが灯されています。










せっかくの絵ろうそく、カバーをしちゃうと見えなくて残念です。










長床が見えてきました(^^)










いつもながら格好良い建物です。
平安時代の貴族の邸宅「寝殿造」の「寝殿」にそっくりです。

以前、建築に詳しい方にお聞きしたところ、
源氏物語の六條院の寝殿と同じサイズだそうです。









雪が降ってもやもかかっています。
フラッシュをたくと写ります。









長床を横から。









長床の隣には枝垂れ桜の木がありました。
姿の良い木ですね。









長床は平安風な丸い柱です。










夜の六條院の寝殿はこんな感じでしょうか?










国指定重要文化財です。










長床(拝殿)でお参りしましたが、
どうせなので上にある神社まで登ってお参りしてきました。








神社より長床を見下ろしてみました。








かがり火が焚かれています。









竹の筒に穴をあけた蝋燭カバーです。











係りのおじさんが、かがり火にくべてある薪を動かして
燃え具合を調整していた瞬間です。

おじさん、鎧武者っぽく見える・・・。






 

狛犬も雪を被っています。









宝物殿も、本日は無料で観覧できます。
文殊菩薩がカッコいいです。








帰る頃には雪がボサボサ降ってきました。
あまりに降ってくる雪が多いと、車のライトが降雪中の雪に反射して前が見えないのですよ。

そんなこんなで、2005年の初詣でした。

明るくなったら願成寺と三島神社に行く事にします。

新宮熊野神社についてはこちらのレポをどうぞ。

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参考資料:新宮熊野神社の境内にあるキャプション