亀ヶ森古墳
かめがもりこふん


福島県内では第1位、東北でも第2位の規模を誇る古墳です。





亀ヶ森古墳は会津坂下(あいづばんげ)町にあります。
会津五桜の糸桜を見にきたついでに寄ってみました。

道端には立派な倉がありました。






蔵の軒先には立派な唐箕が。
江戸時代に開発された農具が、つい最近まで使い続けられたってのはスゴイですよね。
今はもう新しく作られる事もない道具だと思うと、無常を感じます。








「ちかよるな」ってのは、この真下に水路があったからです、確か。

へえ、亀ヶ森古墳って会津三十二番札所だったのですね。









史跡 亀ヶ森・鎮守森古墳

・国指定史跡 昭和51年5月6日
・指定面積 31,100.29u

亀ヶ森古墳は、墳丘の全長が約127mで、東北第2の規模を誇る前方後円墳です。後円部は3段築成で、葺石がみられます。出土した埴輪から、4世紀後半の築造と考えられています。

鎮守森古墳は、墳丘の全長が約55m前方後方墳です。墳丘とほぼ相似形の周堀があるのが確認されました。出土した二重口縁壷から、4世紀中頃の築造と考えられています。

町では、古墳の恒久的保存と郷土学習の場としての史跡公園整備をめざして、史跡の公有化事業を進めています。

会津坂下町教育委員会





平面図はこんな感じ。

二つの古墳の向きが揃っているので、両者の密接な関係が伺えるそうです。例えば親子とか。

両古墳の主は、会津盆地西部を基盤とする歴代の王者であったと考えられています。







今から見るのは亀ヶ森古墳です。
これは後円部です。階段を登ってゆきます。

平地にあり、広い周濠を持つことから、典型的な中期古墳と考えられてきましたが、墳丘から前期と思われる埴輪の破片が採取されたので、前期古墳の可能性が強くなってきたそうです。









階段を登ってゆきます。

この亀ヶ森古墳を築くのに必要な労働量は、計算によると、のべ約14万2千人必要だそうです。






後円部には神社が建てられていました。

古墳に関しては詳しくないのですけど・・・古墳ってのは昔の人も「特別な場所だ」という認識を持っていたようで、このように祭祀的な場になっていることが多いみたいです。

古墳って、実際に見たり登ったりしても、形がよく分かりません。








後円部の中心に向かいます。








後円部の中心を横から。
盛り上がっています。









史跡 亀ヶ森・鎮守森古墳

国指定 昭和51年5月6日
所在地 会津坂下町大字青津字男壇・館の越・田中

亀ヶ森古墳
東北第二の大型前方後円墳で、現況では全長127m前方部長60m、後円部直径67m程の規模である。前方部は墓地となり、後円部には稲荷神社・観音堂が建てられ、中世は館として利用されたため築造当初の景観とはかなり異なるが、周囲に堀跡の水田を残している。平成4年の試堀調査によって段築・葺石・埴輪などが認められ、4世紀末の年代が考えられる。

鎮守森古墳
亀ヶ森古墳の南西50mの位置に亀ヶ森古墳とほぼ同方向に並んで築造されている前方後方墳で、後方部には八幡神社が祭られている。全長56m、前方部長30m、後方部長26mを計り、周堀の有無は不明である。築造時期は未発掘のため詳らかではないが、亀ヶ森古墳より若干下るものと考えられている。

平成元年、古墳の西の男壇(おだん)遺跡・中西遺跡・宮東遺跡が発掘調査され、男壇・宮東遺跡からは前方後円形・前方後方形・方形・円形などの周溝墓を発見、中西遺跡からは当時の集落跡が出土した。これらの遺跡から出土した土器は非常に北陸色の強いものであって、亀ヶ森・鎮守森両古墳の系統を考える上で重要な遺跡である。

会津坂下町教育委員会




後円部の中央にある小さな社。




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