二本松の菊人形

福島県二本松市で開催されている菊人形に行ってきました。
今年はCM等にお金がかかっていない感じでしたが、
その分展示にお金をかけたのでしょうか、とても豪華で見ごたえ充分でした。

去年も一昨年も、芸能人を起用したり呼んだりして、大変そうだったもんな〜。

今年は無料スペースだったところも会場として使用したので
とても広くて良かったです。




二本松駅では義経と静が迎えてくれました。







タッキ-によく似ています。








駅前にタクシーもバスも無かったので、徒歩で城まで向かいます。
途中に坂下門跡がありました。
(会津っ子なので、ばんげって呼んでしまいました)

二本松市指定史跡
名称 坂下門跡(大手門)

旧久保丁入り口に築造された大手門のことであり、俗に坂下門とも称している。
9代藩主・丹羽長富公の治世、天保3(1832)年に幕府に絵図面を添えて願い出し、許可を得て着工された。二本松藩の大手門でもあり、きびしい規制のもとにあった城普請ではあったが、当工事は幕末期二本松藩の傑物家老として天下に知られた丹羽久米介貴明の構想であり、絵図面計画以上の堂々たる大手門が完成したと伝えられている。

昭和51年7月21日指定
二本松教育委員会






到着しました。
うーん、寒すぎます。空気が刺すように冷たいです。手がかじかみます。
会津の平地の装備では甘かったです。
天気は悪いですけど、標高も高いのかもしれません。







二本松少年隊の像は相変わらず格好良いです。
どうして会津にはこういう像が無いのか・・・。
不恰好な物、ハリボテばっかりでガッカリです。
恥ずかしいので、こういうきちんとした物を作ってください。
税金で御廟を荒らす前に、こういう所にこそ金をかけるべきです。








何と、二本松少年隊と向かい合う形で西軍が居ました。
・・・二本松の気持ちとしては三春なのかも。







登って行きます。
門をくぐるとすぐ有料スペースです。







割引券があったので、団体料金1100円を支払って中に入ります。
千輪咲きの菊は、相変わらず見事です。

では、今年のテーマ「義経」の展示に進みます。









静の舞

静は、吉野山中で泣く泣く義経と別れ、さまよううちに、捕らえられ、鎌倉に送られた。文治2年(1186)4月8日、鶴岡八幡宮社頭で将軍・源頼朝の命で舞いを強要される。静は義経の子を宿した体で、義経への恋慕と惜別の悲しみを耐えて即興の曲を歌い舞う。「しづやしづ しづの・・・」死を決したこの大胆な反逆心に、さすがの頼朝も激怒する。しかし妻・政子になだめられ、しぶしぶ許す事になる。

菊が、これ以上は無いくらいのベストな咲き具合でラッキーです!!
豪華絢爛とはこの事を言うのだと思います。圧巻です。
蕾のものは無く、かつ枯れた花も無いんですよ。満開です。大満足です。








静の衣装は手作りですね。お疲れ様です。
以前の私なら煩くツッコミを入れたと思いますが、最近はそんな事はしませんよ(笑)

この袴は、本来そうあるべき捻襠仕立てではないようですが、あれは特殊な形ですから、知らない人には想像もできないと思います。ウエストの紐も一周していないようですが、あれも特殊な構造&着付けですから、大河や写真を見た程度では正確に作れないと思います。

まあ、こういう場合は、ぱっと見がそれっぽければ良いと思います。









平治の乱

平安時代末期、都をゆるがす2つの事件が起こった。保元・平治の乱である。平治の乱(1160)で敗れた義経の父・源義朝は、平清盛に殺された。義経(牛若)数え2歳の時であった。平家の棟梁・平清盛は、源義朝を殺した後、その家族も殺すべく追捕の手をゆるめなかった。母・常盤は、源義朝との間に今若、乙若、牛若の3人の兄弟を生んだが、雪の中、三人の幼い子供たちを連れて、宇治に逃げた。

市女傘であるべきものが違ったり、赤子の義経の髪型が非常に江戸っぽかったりするのは見なかったことにします(笑)






丸くてラブリーな菊です。








常盤御前の決断

義経は幼名を牛若といった。父・源義朝が平治の乱で謀殺されると、母常盤は今若、乙若、そして乳飲み子の牛若を連れ、平家の追っ手から逃れ大和路をさすらう。しかし、常盤の母が捕らえられ尋問に窮していることを知って、六波羅に出頭する。そして平清盛に体面した常盤は母と幼子らの助命を乞うた。義経は将来の出家を条件に一命を助けられ、引き換えに母・常盤は求められるまま、清盛の愛妾となったのである。










鞍馬の天狗

その後、常盤は清盛に促されて、大蔵卿一条長成のもとに再婚した。
長成に養育された牛若は、7歳の時に鞍馬寺に預けられ、稚児名を遮那王と称した。昼は読書、読経に精進を続け、夜は山中深く出かけ、天狗について武芸の習得に励んだ。そこで陰陽師・鬼一法眼に教えを乞い、「六トウ三略」と言う兵法の奥義を授かったという。
打倒平家の夢に燃え、16歳の年までの多感な少年時代を自己鍛錬に明け暮れたのである。

大人顔なのに子供体型。犬のコーギーみたい。







すでに大人顔の牛若。









奥州平泉

ここは、かつてみちのくの政治と文化の中心であった。12世紀、藤原清衡、基衡、秀衡親子3代で100年にわたり、仏教による平和な黄金の理想郷を建設した。
当時、奥州は藤原3代・秀衡の世であった。秀衡は、鎮守府将軍・陸奥守であり、東日本第一の大豪族であり、実力者であった。彼の代に至り、奥州藤原氏は最盛期を迎え、その勢力はまさしく独立王国の観があった。

弁慶がスマートです。そうか、人形は本来菊を纏うのに、弁慶は布のみだからですね。









兄弟対面

義経の異母兄・頼朝が、相模・石橋山の合戦に敗れた後、再挙の旗あげをした。
それを知った義経は、恩寵を受けた藤原秀衡の引き止める声に耳を傾けることもせず、いまだ見ぬ兄・頼朝の宿陣へ馳せ参じた。義経22歳のことである。
治承4年(1180)10月21日、黄瀬川で対面した2人は、手に手を取り合い、心をひとつにして、打倒平家の意気に燃えた。









庄司戻しの桜

福島県白河市旗宿に「庄司戻しの桜」という桜の木がある。
佐藤継信、忠信兄弟は、藤原秀衡の命により、義経の家臣となり終生忠誠をつくした。父・佐藤基治は、信夫(福島市飯坂)の庄司である。基治は息子達を旗宿まで見送り、別れの時、桜の木の枝を地に突き刺し、「汝ら義経様の御為に戦場で果てよ。その時は、この枝は根付くだろう」と励ました。やがてその枝葉根付き、今も大切に植え継がれている。









倶利伽羅峠の合戦

義経の従兄、木曽義仲は、木曽から京を目指して攻め上る。北陸路を進軍中、平家の大軍と加賀・越中国境で対戦する事になった。義仲は平地の戦いでは不利と思い、敵を倶利伽羅峠に追い上げる作戦をとった。
そして、日暮れを待って襲撃をかけた。牛の角に松明をくくりつけてけしかけ、寝ていた相手を大混乱に陥れて大勝した。世に言う「火牛の計」である。
義仲はこの戦いで勝利し、洛中警護の院宣を授けられた。

この展示の為だけに、牛のハリボテを二つ作ったのかあ、大変だなあ。

それにしても、どうして巴などの女武者は、妙な髪飾りを着けているのでしょうか。
個人的には変だと思うのですが、服飾史的にどうなのでしょうか。









検非違使任官

寿永3年2月、義経は一ノ谷の奇襲作戦に成功し、京都に戻り兄に戦勝報告をする。8月、後白河法皇から朝廷の検非違使・左衛門少尉に任じられた。
これが頼朝を激怒させた。頼朝はかねがね、無断で朝廷から官位を頂くのを固く禁じていたのに、弟といえども例外ではない。このあたりから頼朝の義経に対する感情の悪化が始まった。しかもさらに立身して、従五位下・大夫判官の地位が下され、とうとう院の昇殿まで許されたのだ。

御帳台のようなものも作ったのですね、お疲れ様です。

あれ?義経が居ませんよ。







おや?








されるがまま(笑)









屋島の合戦

一ノ谷で大敗を喫した平家であったが、西国一円と瀬戸内海の制海権はいまだ手中にあった。元歴元年(1184)8月、ようやく平家追討の出撃命令が下った義経は、わずか5隻の船で出航、嵐をついて、3日の行程をわずか4時間で阿波(徳島)勝浦に上陸。精鋭80騎で屋島の平家を背後から奇襲する。夕方、両軍兵を引いたところに、平家方から、扇を竿につけた小船が漕ぎ寄って来た。那須与一が選ばれ、揺れる扇の的を見事射落とす。

迫力の有る展示です。







オスカル。








腰越状

平家撲滅の任を完遂した義経は、兄頼朝からの温かい歓迎を期待した。しかし、予想に反し、鎌倉入りも許されずに追い返され、腰越の宿舎に足止めをくらわされた。平家討滅の恩賞褒詞の期待も打ち砕かれて、腰越状と呼ばれる一通の釈明書をしたためたが、頼朝の心を開くことはできなかった。
一言の弁明も聞いてもらえず、追われるように帰京した義経は、まもなく反逆として逃避行を余儀なくされることになる。








壇ノ浦の合戦

保元の乱に始まった源平の争乱は、壇ノ浦の合戦を最終に終止符が打たれた。元歴2年(1185)3月24日朝、関門海峡に臨む壇ノ浦(下関市)、門司の関(北九州市)に両軍は対峙した。源氏が、船戦を得意とする平家に、初めて海上決戦を挑んだのである。
そして、奮闘空しく平家の劣勢は明らかになり、最後と悟った二位尼(清盛の妻、時子)は安徳天皇を抱え入水、一門は次々と波間に身を躍らせ、散っていったのである。

城の敷地の関係で、展示の順番が前後しています。
紅葉と、水面に映る旗が良い感じです。







それにしても菊が満開だ〜。
良い日に来られて大満足です。








吉野の別れ

反逆者とみなされ、京を追われた義経一行は、摂津、大物浦(兵庫県尼崎市)から西国を目指して船出するが、嵐のため遭難。やむなく引き返して、逃げ込んだ吉野の山中にある吉水神社であった。別れて天王寺周辺に潜伏していた静は、義経の迎えによって吉野に入り、今生の別れを惜しむ。そして、義経から多くの金銀を受けて、京に戻る事になったが、金品を奪われ、置き去りにされているところを、捕吏に捕らえられる。









勧進帳

全国に残る義経伝説の一つを題材にした歌舞伎十八番の名場面。「勧進帳」とは神社が寄付をつのる願い状のこと。場所は加賀の国(石川県)安宅の関。
兄・頼朝に謀反人として追われる義経主従は、山伏に化け、勧進の旅を装う。関守・富樫左衛門に、東大寺建立のため諸国を廻るというのなら勧進帳を読めといわれて、白紙の巻物を朗々と読み上げる弁慶。弁慶の機転で無事に通過する有名なくだり。

弁慶の腕は上下に動いています。









鵯越の逆落とし

都落ちした平家だが、徐々に息を吹き返し、摂津・福原(神戸市)まで進み、再び京へ上る勢いを示した。平家追討の院宣を受けた源氏は、源範頼率いる大手軍が山陽道から福原の東へ進攻、義経率いる搦め手軍は丹波路を福原の西を目指した。義経は途中、さらに本隊から別れ、自ら別動隊を編成して「一ノ谷」の裏手「鵯越」から中央突破を図った。獣しか通わぬと言われる急峻からの攻撃。予想もしなかった敵襲に平家は総崩れとなった。

坂を生かした展示です。迫力があります。








高館に死す

北陸を経て出羽に向かった義経主従は、1年数ヵ月の逃避行の末に再び奥州平泉に辿り付く。しかし、ここも安住の地とはならなかった。頼りにした藤原秀衡が半年余り後にあっけなく病死してしまうと、頼朝の追討の圧力が一気に強まっていった。
そして、文治5年(1189)4月、頼朝の懐柔と威圧に屈した秀衡の子・泰衡は衣川の高館に義経を急襲した。義経為す術もなく、妻と幼子とともに寺仏堂で自刃。31歳であった。

弁慶、見事な立ち往生です。







この塔は毎年綺麗です。
この左隣にあった、安達太良名水が美味しかったです。







五条大橋の決闘

鞍馬山に預けられた牛若は、厳しい武芸の修行に励み、兵法「六トウ三略」の奥義を会得するまでになっていた。そして、母を慕ってたびたび里に下り、町をさまよっていた。
同じ頃、比叡山を追放された武蔵坊弁慶は、夜毎、五条大橋に現れ、平家の公達から刀を奪う行為に及んでいた。今日が満願の千本目、そこに牛若が通りかかった。弁慶は牛若を平家の者と思い込み、襲い掛かるが、かわされて、反対に打ち据えられた。

今回の為に購入したのでしょうか、タッキ-人形は上下に動く仕掛けになっています。









うーん、紅葉を背景に、いい構図ですよね。
記念撮影スポットです。







女性はタッキ-とツーショットで菊人形になれます。
もちろん私も撮りました(笑)







屋根の有る屋外展示です。提灯屋台に灯りが灯っていて綺麗です。
また、二本松少年対についてや、土産物屋の売店がありました。






うわー、菊のトンネルも満開です。
一昨年来た時は全部蕾だったので、感動もひとしおです。







ほらー、綺麗でしょ。贅沢だなあ。







菊人形を見終わりましたが、せっかくなので本丸まで上ってみることにしました。








紅葉が見事ですよ。







わざわざ京都などに行かなくたって、近場で充分綺麗な紅葉が見られます。
幸せです。
ちょっとくらい曇りでも、肉眼なら充分綺麗です。写真を撮るには残念ですけど。







先ほどの菊人形会場を見下ろします。







ずんずん登って行きます。







笠松です。見事な枝ぶりです。






池を見下ろします。
赤、オレンジ、緑と、様々な色が綺麗です。







安達太良山は曇っていて見えませんでした。








何と、本丸に到着目前、大雨が降ってきました。

いやはや、前夜のヤフー天気予報だと曇りだったのに・・・。信用して傘を持ってきませんでした。お蔭でかなり濡れてしまい、体温が奪われて凍死しそうでした。しませんでしたが。
残念ですが、ここで上ることを断念。

そんなこんなで、雨に濡れながらタクシーを拾い、駅前で電車待ちをしながら遅い昼食をとり、郡山で買い物をして帰ってきました。

それにしても、今年の菊人形は菊が綺麗で会場も広くなっていて大満足でした。若松からはちょっと遠いですけど、行って良かったです。

菊人形を観覧中は雨が降らなかった事を思えば、ラッキーだったのかもしれません。


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