建福寺 シダレ桜

2005.4.27






せっかくの花見日よりなので、頑張って巡れるだけ巡ってみる事にしました。
建福寺のシダレ桜です。








うーん、見事です!








市指定文化財第49号
昭和55年3月29日指定

天然記念物 建福寺のシダレ桜

会津若松市門田町大字黒岩字建福寺前

樹齢はよくわからないが古木である。
胸高幹周囲2.5m、樹高13m、根元から2.2mのところで双幹となり、南西北の三方へ枝が広がっている。開花は4月下旬で、その姿は美しい。

建福寺は信州高遠に開創されたが、保科正之に随って最上・会津と移ってきた。
また当寺は長岡藩家老河井継之助の遺骨を最初に埋葬したところである。

昭和61年10月
会津若松市教育委員会







太夫桜、石部桜に続いて、建福寺も満開です。
運が良いです。









下から見上げると、覆い被さってくるようです。








滝のシャワーです。
今年は三春の滝桜を見に行きませんでしたが、
ここのシダレ桜も充分「滝桜」です。







ああ、日が陰る・・・。








シダレ桜って、ちょっとくらい葉が出ていても見栄えがすると思いませんか?
どうしてソメイヨシノは葉が出ると見栄えが悪くなるのでしょう。







梅もまた可憐ですね〜。
瑞々しいです。

ところで、河井継之助の埋骨地ってどこにあるのでしょうか?
お孫さん連れで桜を見ていたおばーちゃんに聞きましたが、分からないとのこと。そうしたら一台の車が敷地内に入ってきました。
「あの人、お寺の人だから聞いてみな!」

ラッキーです。いつも物事が良い方向に進む気がします。

質問したら、寺の縁起が書かれた紙と、河井継之助の埋骨地への丁寧な地図を下さいました。ありがとうございます。

「今日は遅いので、次の機会にします」
「5分くらいだから行ってきな」

ということで、行く事にしました。








寺からさらに坂を登ると、墓地がありました。
ここのシダレ桜は終わっていましたが、葉が出た姿も綺麗でした。








すわ。







坂道を登ります。








登ります。









一般の方々のお墓をすりぬけ、さらに登ります。








最も高いところに、河井継之助の埋骨地跡がありました。

寺でいただいた資料に、こう書いてありました。


当山墓地には「長岡藩家老河井継之助埋骨の遺蹟」がある。

河井継之助は只見の塩沢で亡くなり、その地で火葬され、その遺骨は、当時建福寺に避難していた長岡藩主牧野忠訓公の下に届けられ、当寺にてご葬儀をし、仮に埋葬された。

明治2年9月には長岡の河井家の菩提寺である栄涼寺に改葬されている。

現在「埋骨の遺蹟」の碑が残っている。








碑は、長岡・・・新潟の方角を向いて建っているようです。
鶴ヶ城もよく見えました。


いただいた資料によると、有名な武士たちがここ建福寺に埋葬されているようです。

・初代藩主保科正之公に従って会津入りした歴代の会津藩家老・北原釆女光次

・会津藩家老・神保内蔵助利孝

・会津藩溝口派一刀流の始祖・池上丈左衛門安道

・切支丹弾圧に苛酷に対応し、天草四郎時貞の一揆を誘発して幕府からその不行き届きを咎められ領地没収、死罪となった島原藩主松倉門守重次の弟で、不運の武将松倉右近太夫重頼

・越後の麒麟児といわれた長岡藩家老(幕末には総督)・河井継之助。

・会津藩太子流師範・中林弥一右衛門尚堅。



いただいた資料にあった、寺の縁起です。

会津藩初代藩主 保科肥後守正之公 ゆかりの寺

大寶山 建福寺

寛永20年(1643)8月保科正之公(母 お静の方・後に浄光院は2代将軍秀忠の側室)は、会津23万石を領し入部した。

その時、信州高遠の臨済宗妙心寺派 大寶山建福寺第五世住持僧の鉄舟禅師が、正之公の養祖父 保科正直、養父の正光両公の御位牌を持して、若松南町河原新丁に移ったが、後鉄舟禅師遷化し、三世の黙堂禅師のとき、延宝8年(1680)3月現在の地青木に寺領を賜り、大伽藍を建立した。その境内は一万坪を有したといわれる。

その後、黙堂禅師仔細あって退山。貞享2年(1685)3代藩主正容公は、江戸芝東禅寺の三世黙水禅師を請じて中興の祖とした。当寺は開山以来、藩より寺領100石を拝領し、士族寺として隆盛を極めたが、慶応から明治にかけての戊辰戦争によってことごとく灰燼と化し、現在に至っている。現在の堂宇は明治3年、当時の鶴ヶ城御殿の古材を利用し、再建されたものといわれる。

 

また戊辰か・・・。

確かに、墓地の様子や縁起を見るに、昔はさぞや立派な寺だったんだろうなと、容易に推測できます。


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