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2003.9.24

白虎隊剣舞

「白虎隊剣舞」「白虎隊慰霊祭」「飯盛山墓前祭」と検索しても、
有益な情報に引っかからない事に驚きました。
せいぜい、冒頭の「少年団結す〜」程度です。

という訳で「会津人として正確な情報をUPして、見たい人が常に閲覧できる状態にせねば!!」という
意気込みで作ったページです。

参考にしたのが本家・会津高校剣舞会のビデオなので
正確さにおいてはピカ一です。

会津若松市立図書館で借りられるので
お近くにお住まいの皆様は是非♪
本も同じ物が2冊ありますので、同時に2人まで借りられます。





参考:鶴ヶ城北出丸・武徳殿内に掲げられている漢詩。







舞をする時は、白虎隊の墓前で拝礼してから始めます。

墓前以外の場所で舞う時は、墓の方向を向き、拝礼してから吟を始めます。

この剣舞はそもそも、白虎隊士の墓に奉納する剣舞であり、
古来起立脱帽で拝観する慣例であることが観衆に伝えられます。

なのに起立脱帽しない人たちもいます。
皆さん、せっかく見に来たのですから、礼儀は大切にしましょう。


ちなみに、この剣舞は見世物ではないので、
特に酒の席で舞うことは固く禁じられているそうです。

こういうストイックな所を誇らしく思います。

ずーっと以前「アンコール」があったりしたようなのですが
少年達は「この舞いは白虎隊士に捧げるものであって
あなた方に見せるためのものではない」ときっぱり言ったそうです。

あくまで主役は、亡き白虎隊士と剣舞会の皆さんです。

我々は「見せてもらっている」という意識が必要です。








神事なので神職さんです。



拝礼を終え、いったん退場した会津高校の生徒が
再度入場します。



飯盛山で自刃したのは白虎隊士中2番隊の20名ですが、
飯沼貞吉さんが蘇生しています。
ですから、舞を舞うのは19人です。

飯沼貞吉さん役の人は詩を吟ずるのです。



丸の中が飯沼貞吉さん役。
朗々と詩を吟じます。

※飯沼貞吉役の人の周りで座っているのは、剣舞会の皆さんです。
後ろの観衆の視界の妨げにならないように
気を使って下さっているのです。



では白虎隊剣舞を詩と写真でご覧ください。
舞は動いていないと良さが伝わらないのが残念です。

少年団結す白虎の隊
(しょうねんだんけつす びゃっこのたい)
 


国歩艱難堡塞を戌る
(こくほかんなん ほうさいをまもる)

序章
大軍突如として風雨来る
(たいぐんとつじょとして ふううきたる)
 


殺気惨憺白日晦し
(さっきさんたん はくじつくらし)
  


へい鼓喧てん百雷震う
(へいこけんてん ひゃいうらいふるう)
 


巨砲連発僵屍堆し
(きょほうれんぱつ きょうしうずたかし)



殊死陣を衝いて怒髪竪つ
(しゅしじんをついて どはつたつ)
 


縦横奮撃一面開く
(じゅうおうふんげき いちめんひらく)
 

 
いたいけな少年ながら戦闘に参加し、酷しい状況の中で力いっぱい活動した勇ましい章
時に利あらず戦い且つ卻く
(ときにりあらず たたかいかつしりぞく)



身には創痍を裹み口に薬を含む
(みにはそういをつつみ くちにくすりをふくむ)
 


腹背は皆敵なり将た安くにか之かん
(ふくはいはみなてきなり はたいずくにかゆかん)



剣を杖ついて間行丘がくをよず
(けんをつえついて かんこうきゅうがくをよず)
 

戦いに敗れ、披露と痛哭の中で助け合い励まし合い、鶴ヶ城へと歩みを進めた章
南鶴ヶ城を望めば烟えんあがる
(みなみつるがじょうをのぞめば えんえんあがる)



痛哭涙を呑んで且く彷徨う
(つうこくなみだをのんで しばらくさまよう)
 


社稷亡びぬ以って已むべしと
(しゃしょくほろびぬ もってやむべしと)



十有九士腹を屠って死す
(じゅきゅうし はらをほふってしす)

白虎隊士の、心のよりどころであった鶴ヶ城の姿を見て、力尽き、迷い、そして決断し、潔く自刃した悲壮なクライマックスの章
俯仰すれば此事十七年
(ふぎょうすれば このことじゅうななとせ)



之を絵にし之を文にして世稍やく伝う
(これをえにし これをふみにして よようやくつとう)
 


忠烈は赫赫として前日の如し
(ちゅうれつは かっかくとして ぜんじつのごとし)
 


圧倒す田横麾下の賢
(あっとうす でんおうきかのけん)
 
白虎隊士の行動は古今随一であり、全世界に向かって大いに賛美しようと叫ぶ章


あ〜素晴らしい剣舞でしたね。



剣部会や市長、関係者の方々が記念撮影をなさっておられました。



白虎隊士の墓前には榊があります。
白虎隊士は神式で埋葬されていますので、お参りの際は柏手を打ってください。

※いつも線香があがっているのは、神仏習合的なものです。






 

大殿からお花が!!
そういえば、昨日「松平容保」としてご参加だった14代当主の保久様は
墓前祭にはおられませんでした。
殿には現代のお勤めがあるんでしょうきっと。





白虎隊士の自刃場所より鶴ヶ城を望む。
そういえば今日は小雨が降っていました。
涙雨でしょう。


白虎隊剣舞の歴史

明治17年白虎隊士の17回忌にあたり、私黌日新館の初代館長・中条辰頼が、私黌日新館文学部教授であった佐原盛純先生に作詞を依頼した。

佐原先生の作詞した漢詩「白虎隊」に、住吉神社境内で、佐原先生と私黌日新館の生徒達が振り付けを決め、剣舞ができた。

明治17年、旧8月25日(新10月13日)、飯盛山墓前での白虎隊士17回忌祭に、初めて白虎体験部が奉納された。

当時の記録には次のようにある。

「・・・満場静寂悲愴、微かに嗚咽の声聞ゆるあるのみ。
忠誠公(松平容保)には・・・御落涙の態に拝せられ・・・
涕涙滂沱(ているいぼうだ)剣舞の終わりたるをも覚えず罷り在り候ひき」

明治23年(1890)会津中学校が設立、佐原先生が教授嘱託、私黌日新館の生徒も会津中学校に入学したこともあって、剣舞も伝えられた。

以来、白虎隊剣舞は会津中学校の伝統となる。
参加者は全員「起立脱帽」であった。

昭和天皇をはじめ、皇族方や松平家ご一族や、その他名士の方々にもご覧いただいた。

昭和20年、太平洋戦争後刀を使うことができず、中止の止む無きに至った。

昭和27年4月24日、剣部会OBだけ10数名が飯盛山の墓前に剣舞を奉納した。

昭和28年、刀と服装が整い、会津高等学校に白虎隊剣舞が復活した。

以後、会津高等学校の伝統として継承され、毎年4月24日9月24日の白虎隊墓前祭に剣舞が奉納されている。

殿もご覧になられたんですね・・・。

明治17年といったら、会津は辛酸を舐めていた事でしょう。

白虎隊剣舞のついでに言えば、白虎隊を始めとした会津藩の人々の遺体は
新政府軍に埋葬を禁じられ、数ヶ月間放置でした。
おおよそ半年でしょうか。

※白虎隊士の遺体も、当然この地に放置させられました。

藩士だけでなく、一般人もです。当然腐乱です。
こっそり埋葬しても罰せられ、掘って元に戻せと言われました。

明治2年2月、ようやく埋葬許可が出ました。
しかし普通の人としての埋葬許可ではありません。

埋葬地は古くからの罪人塚に限定。作業するのは罪人の埋葬をしてきた人に限定。

戦死者があまりに可哀想だと、500石取りだった会津藩士が
身分を捨てて埋葬作業に協力したりしたそうです。

埋葬方法は、数人〜数十人を一箇所に詰め込む。
だから18人墓とか20人墓がある訳です。

さらに、戦死者の魂に香花を手向けることも禁止しました。

墓標を立てる許可は明治11年にようやく出されましたが
賊軍の墓という見方で、墓標の文字も「戦死墓」の三文字に限定されました。

武士道など皆無ですね。

会津以外の方たちは、すぐに丁寧に埋葬され、きちんと墓石も立ったそうです。

先祖達がこんなに酷い仕打ちをうけているんですから
戊辰戦争にこだわるな、というほうが無理です。


戊辰戦争は、ぶっちゃけ「徳川政権が転覆させられた」ってことです。
官も賊もありません。

何でこうまでされなきゃならないのでしょう?

「官」と名乗ることでしか自分達の正義をアピールできなかったのでしょう。
尊皇攘夷も、結局まやかしでしたし。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


その後、白虎隊伝承史学館に行ったら
そこの館長に話し掛けられました。

「早乙女貢先生が、毎年9月24日に洞門くぐりをすると聞いたのですが
もう終わっちゃったみたいで残念です」


証拠:泥のついた足跡が洞門から・・・。

「じゃあ今から潜るか?」

「いえ、今日は寒いのでいいです」

※別に、館長と知り合いではないです。






ちょっとひとこと。
白虎隊剣舞が終わり、しみじみしていたら
間をおかず新撰組の格好をした女性が数名入ってきて
居合い(?)を奉納(?)していました。

それは置いておくとして、剣舞が始まる前に墓前で着替えをするのはいかがなものかと。
剣舞が始まってからゴソゴソ移動しているのもどうかと。
終わったあと、また墓前で着替えをしているのは・・・
正直やめていただきたかった。

墓前際は神聖なもので、イベントでもコスプレ会場でもないのです。

男装の羽織袴姿と素人の居合は、白虎隊の墓前ではなく、
他所のイベントでのみ披露してください。

迷惑です。


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