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大隣寺

二本松藩士の墓参りにも行きました。



都会の駅の地図のように
立体的でステキ。

曹洞宗 巨邦山 大隣寺

2代丹羽長重公は、初代長秀公の菩提を弔うため、寛永4年(1627)、越前国の融法全祝大和尚を招き、白河の地に大隣寺を建立した。
境内には、
歴代藩主の霊廟、丹羽家の位牌堂である御霊屋、戊辰の役で幼い命を散らした二本松少年隊の墓がある。また、延命子安地蔵菩薩や十二支守本尊が安置されており、両国33観音を祭った霊場観音山と共に信仰を集めている。





上の地図の階段下「A」の場所。

少年隊士岡山篤次郎と、副隊長二階堂衛守の「戦死之地」碑。
2人は、大壇で戦死した木村隊長の首を運ぶ途中、大隣寺の石段の下で銃撃された。









階段を登って本堂へ。










本堂。
左側にあるのは枝垂桜の木です。花が咲いたら美しいでしょうね。









「戦死群霊」碑

私は何も感じませんでしたが、他の3人全員が
「ここダメ。まじで。」と言いました・・・(^^;

夕方で、気温が低かっただけだよ〜。たぶん。









二本松少年隊の墓。
木村隊長ら戦死した16人の墓碑が並ぶ。


二本松少年隊の存在は、歴史に埋もれてしまう所だったらしいです。
大正6年に、18歳に満たない多数の少年兵の存在が明らかになったそうです。
現在名前がわかっているだけで62名だそうです。

少年達のこの墓碑は、昭和7年になってから建てられたものだそうです。
どうりで新しい・・・。

碑には「13歳」「13歳」と、13歳の人たちが多いです。
数えだったら12歳・・・小学校6年生〜中学1年ってところですか?
気の毒すぎます。

二本松少年隊の墓

慶応4年(1868)7月26日、三春藩の突如の降伏により二本松藩の横腹を突く形となった西軍は、潮の如く二本松城下に迫りつつあった。そのため藩は止むなく少年隊の出陣を命じることとなり、12歳から17歳までの62名が緊急に各隊に配属され、西軍との応戦体制に入った。
29日朝、隊長木村銃太郎・副体調二階堂衛守の率いる少年隊士25名が出陣した大壇口で戦闘が開始された。少年隊の放つ速撃弾は次々と命中、大いに西軍を悩ましたが、多勢に無勢、新式銃を具備した西軍を前に徐々に戦況は悪化し、ついに隊長が銃弾に倒れ、戊辰戦争中最大の激戦、大壇口の戦いは終焉を告げた。その後、少年隊士は各々果敢に戦いを続け、敵弾に倒れ、また返り討ちにあい、計14名の戦死者を数えた。
時代の流れとはいえ、維新の夜明けを前に義に準じた純愛にして可憐な少年達、会津白虎隊に勝るとも劣らない壮烈な戦死を偲び、その忠魂を称え、心から冥福を祈る参詣者が今も絶えない。
隊長・副隊長と14名の少年隊士の魂がここに眠る。









二本松で戦死した会津、仙台両藩の合同供養塔








二本松藩の歴代藩主の霊廟へ向かいます。

実は、二本松藩士の墓参りにこの寺を訪れたので
丹羽氏の墓があるとは意外。
得した気分。








これは初代の墓です。
こういうのが9人分、一箇所にまとまっていました。

9代の人の墓だけ、ちょっと離れたところにありました。
そこも皆「ここもダメ」と言いました・・・。
気温が低いだけだよ。きっと。
二本松藩主丹羽公の略歴

丹羽公の祖は尾張国丹羽郡児玉村に住し、室町幕府三管領の筆頭で越前、尾張の守護である斯波氏に仕え30代忠長の時に「丹羽」を姓とした。
31代長政の代2子であった長秀は、若くして斯波氏の守護代・織田氏に仕え、1562年、織田信長は異母兄・信広の娘を長秀に嫁がせ、以後重臣として軍事・民事を支配させた。1572年、近江国佐和山5万石の城主となり初めて戦国大名となる。
1582年、本能寺の変に際し逡巡して時機を失い以前の部下であった豊臣秀吉に帰属、若狭国と近江国内の2郡を与えられる。
1583年、賤ガ岳、北の庄の合戦で柴田勝家を攻め滅ぼし、秀吉より越前国と加賀国内の2郡を加増され123万石余の大大名となる。
1585年、長重公家督を継ぐ。1600年、関が原の合戦で徳川家康より所領を没収され以後流浪の身となる。1603年、常陸国古渡1万石を得て大名に復帰、1622年、陸奥国棚倉5万石の城主として移封、1627年、白河10万石余の城主として移封。
1637年光重公家督を継ぐ。1643年、二本松10万石の城主として移封。以来、明治戊辰まで225年間にわたる二本松藩政が展開された。


丹羽氏は移封が多くて大変ですね。
うちの兄が言うには、丹羽氏は城を作るのがとても上手だったので
次々と城を作ってもらうために、次々と移封されたのだそうです。




・・・女性に優しくないなあ。生母なのに。

陰墓

江戸時代、大名の正室と世子(後継者)は江戸の屋敷に住し、藩主は「参勤交代」制度により、国元と江戸を一年交互に住していた。
そのため、国元には「御国御前」といわれる側室がおり、この女性の生んだ子が藩主を継承する例が多々みられた。この場合、幕府には正室の子として届けられたため、側室は生母であってもあくまで陰の存在でしかなかった。
「陰墓」は、藩主の子が自分の生母を陰ながら供養するために築いたものであり、墓標等を建てることは許されなかった。

二本松史跡保存会




大隣寺の向かいにあるみやげ物やを物色し、
それぞれ「乾燥きのこ詰め合わせパック」などを購入。

日も暮れたので帰路につきます。






手打ちうどんで有名な、鞍手茶屋に寄りました。

そういえば、我々は昼食を食べていませんでした。
もののふ倶楽部は、いつも目的を達成する為に
しゃかりきに頑張ってしまいます。

皆、お腹がすきすぎて限界間近です。
遊びに行くときは、携帯食料を持っていくことに決めました(笑)


鞍手茶屋では「けんちんうどん、麦とろ、もち」のセットを頼みました。

「もちはお好きなものを選んでください」

「納豆、ごま、あんこ、きなこ・・・
雑煮
雑煮はだめですよね?」

「大丈夫ですよ〜」

「じゃあ、雑煮で。」


4人中、3人が雑煮をチョイスしました。
もう一人はごま。

皆様、雑煮と聞いて何を想像しますか?
当然、うどんとは別の容器に入ってくると思いますよね?

で、実際に運ばれてきたものは・・・。





↑コレ。


これは雑煮じゃなくて力うどんです。

まあ旨いからいいか。






茶屋内部。
おそらくどこかの古民家か何かを移築してきたものでしょう。






トイレへと続く廊下も趣があります。







ネジ式のカギ。
こういうのって懐かしいです。
私の通っていた木造校舎の小学校がこれでした。



というわけで、満腹になり
二本松ツアーも終了でございます。

友人に餅を2個もらって食べたのは秘密。


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